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博士論文2022年5月の報告書。
もう少しでこの災害は終わるのかもしれない、とぼんやり実感することの多い1ヶ月だった。5月10日に参加したMr.Childrenのライブは本当に圧巻だったし、東京ドーム一杯に人が入っている状況はクラクラするような高揚に満ちていた。新宿の製本工場跡で開催された惑星ザムザ展はちょっとお化け屋敷のような感じすらある迫力があって、これも人の創作から強く影響を受ける感覚を思い出させてくれた。久しく会えていなかった友人や先輩とも会い、博士論文の中身についてかなり議論したりもした。人が集まることや人と集まることへの無意識的な恐怖が、おそるおそるとれてきたような感じもした。そうした中で屋外ではマスクを外していいという宣言が出されたりもした。
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僕が博士に入学したのは2020年の4月なので、ちょうど災害の本格的に深刻化したのと同時に入学したことになる。入学とともに災害が始まり、卒業とともに災害が収束するような気がする。
ふと2020年の4月あたりのことを思い出そうとして、エヴァンゲリオン風にパロディされた災害の進捗まとめ動画を久しぶりに見てみた。「そういえばそんなことあったな」と忘れてしまっていることばかりだった。きっと他にもたくさんの現象や恐怖をすでに忘れてしまっているのだろう。これ以上他の災害が起こらないことを祈るばかりだが、後から思い出すときこの博士課程の3年間は辛い記憶になる気もするし、案外終わってみれば良いことがたくさんあったことにも気がついて楽しかった記憶へと変わっていくのかもしれないとも思う。微妙なところだ。
最近ふと思い立って日本の1990年代のことを少し調べていると、毎年のように異常な大量殺人や少年・少女による殺人が起こっていてちょっと驚いた。ハイジャックがあり、サリンが長野でまかれたり地下鉄でまかれていたり、暴力団の抗争があったり、大地震があったりした。それらが(何かしら)毎年のように起こっていた。平成の大合併や企業の合併・吸収も多くあった。
先ほどの動画のパロディ元となった『エヴァンゲリオン』はそうした不安定な時代背景の中で生まれた作品でもある。それを20年以上かけて完成させていったわけだが、当然時代背景はあまりに変わり、90年代の不安定な時代空気のようなものは薄れてしまったのかもしれない。
時代背景の変化に伴うコンテクストとコンテンツの乖離を解消する手段として、『新劇場版エヴァンゲリオンQ』では作品世界の時間を14年も一気に進め、作品の中に流れる雰囲気をガラッとかえることで時代のコンテクストとコンテンツの雰囲気を合わせて行ったのかもしれないと考えたりした。そして研究にも同じことが言えるのかもしれないとぼんやり考えたりした。
【この連載について】
noteマガジン「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」は、石田の博士論文を書き上げるまでの議論や紆余曲折をつづる連載です。毎月報告レポートが届きます。
【書き手について】
石田康平|いしだ こうへい
1994年大阪生まれ。デザイナーで研究者。東大建築の博士課程に在籍。VRやMRと建築・都市の関係性が研究の主題。日本学術振興会特別研究員(DC2)。クマ財団2期クリエイター。佐々木泰樹育英会奨学生、トヨタ・ドワンゴ高度人工知能人材認定ほか認定多数。修士論文で工学系研究科建築学選考長賞、新建築論考コンペティション2021にて最優秀賞、第3回片岡安賞入選、日本建築学会大会(東海)にて若手優秀発表賞など受賞している。『新建築』や『WIRED』、『SHUKYU Magazine』などに論考や記事が掲載。デザインファームでのインターン、AIベンチャーでの製品設計などを経て、現在は「夢における空間論」をテーマに博士論文を執筆している。より詳しいプロフィールはこちら。
1. 乙武洋匡さんのトーク
5月末に知り合いの港区議員さんの紹介で、乙武さんの来られる集まりに行かせてもらった。参院選に出馬されるとのことで、社会科見学のようなつもりでそのトークと議論を聞きに行った。
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乙武さんの話は6年前の選挙の辞退の話から始まった。
乙武さん自身の女性問題があり、6年前に選挙に出馬するつもりができなくなった。その際にはもう日本を離れたくなったそうだ。日本を離れて暮らそうとバルセロナやイスタンブールなど移住先を探していて、メルボルンに行き着いたという。メルボルンはとても快適に思えたそうだ。日本と時差はあまりなく、四季はあるが湿気がない。何より障害を持っていても暮らしやすいと感じたという。
それで移住先を仮決めして、Airbnbで6週間メルボルンに部屋を借りて住み始めたのだが、3週間くらいで「暇だな」と感じ始めたらしい。その理由を考えてみると、あまりにメルボルンでの暮らしがゲームでいうところの「イージーモード」だからではないか、ということだった。つまり自分は生まれた時から手足がなく「スーパーハードモード」で生きてきたのに、急に「イージーモード」に移ったから退屈に感じ、刺激を求めるようになってしまったのではないかということだ。そうした認識の変化もあって、日本に帰ってきて選挙に(しかも無所属で)挑むことにしたらしい。
乙武さんが政治で何を実現したいかというと「多様な人々がストレスなくバリアフリーに生きられる社会」ということで、壮大な自己矛盾にちょっと笑ってしまった。自分はイージーモードは嫌だが、自分の生きている社会をイージーモードにしてみたいという。別に矛盾を糾弾したいのではない。そうした矛盾を自然と同居させてしまう乙武さんという人にとても興味を持った。
人は程度の差こそあれど矛盾した思想や感情を同居させているものと思うけれど、選挙につながる演説の初っ端でこんな大胆な矛盾から始まるとは思わなかったから、そのあり方を面白く思ってしまった。
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乙武さんの話の中では、マイクロソフトUKの障害対応担当の人から聞いたらしい話が面白かった。マイクロソフトUKでは、3つの分類で障害を捉えているという(本当かは知りません)。一つ目は、パーマネントな障害。手足がないなど、一生変わらないもの。2つ目は数ヶ月単位で生じる障害。骨折や妊婦さんなど期間でバリアの生まれる人。3つ目はインスタントな障害。コーヒーを持っているとか荷物を抱えるとかで片手が使えないなどのバリア。こういう時はシフトキーを押しつつ別のキーを押すみたいなことができない。そうした状況でも何か便利な機能はないかと考える、という。
僕がこの捉え方で面白いなと思ったのは、「健常か障害か」という区分で人を分けてしまうのではなく、頻度と持続性と程度で「障害」を捉えてみることによって、全ての人々に障害がある(あるいは、発生しうる)という前提の中で施策を評価できるようになることである。すなわち手足のない人への対応がコーヒーを持っている人への対応にもなりうるしその逆もありうるわけで、障害者対応を特殊な対応というよりむしろ普通の対応として捉えることをエンカレッジしている考え方であるともいえる。そのあたりに興味を持った。
あと個人的には、乙武さんの話や議論が「自分はこうしたい」「自分はこう考える」というスタンスに徹していることに興味を持った。「みんなこうですよね」とか社会の共通認識の整理のような前提の共有の議論があまりなく、「自分はこう考える」という話し方が多かった印象を受けた。普通の人に対してならそうした際に「この人の頭の中に他者はどれくらい想定されているのかしら?」と思ってしまうのだが、乙武さんに対しては「そうかこの人は、“普通”の人がどう考えるのかなんて知りようがないし、極めて共通項の少ない経験の中で思考しているのか」と思い当たって愕然とした。なるほどこれが多様性理解への一歩ということか、と教えられたような気持ちにもなった。分かり合えないことへの落胆や絶望は、分かり合えると思う勘違い的な希望の裏返しとして生まれてくるわけで、そもそも絶対に完璧に互いを理解し合うことはできないという強い前提のもとで展開される政策や社会についての議論はすごく意味があるのかもしれないと感じた。
2. 能の観賞
能について。4月に引き続き、5月も能を観に行った。今回は直面(ひためん)が多い演目。僕は能面をつけた人がたくさん出てくる演目の方が好きだなと思った。直面というのは、面をつけないシテ方(役者)の状態のことで「面をつけないという面」と説明されたりするものの、やはりそれは人の顔である。その時舞台に立つ人物はどこまで行っても普通の人にしか見えない。
能面が面白いのは、能面の冷ややかさとシテ方の必死さの対比が生まれるところである(と思う)。能面をシテ方がつけるとき、むしろシテ方のあご周りの動きや肩の動きに目がいくようになる。そこには声を出し謡う必死さがよく見えるようになってくる。しかし一方で能面は、ゆらりゆらりと表情こそ変化するように見えるもののやはり冷ややかなままである。そこに2つの存在がせめぎ合うような対比が生まれてくるのが面白い。
6月にも2つほど能を見にいく予定。ちょっとずつ能についての理解は深めていければと思う。ちなみに今回はドキュメンタリー作家の友人と見に行ったのだが、能のセリフや謡、シテ方のセリフの主語(自分のことを私とか僕と言わずに、自分の名前で呼んだり)なんかに注目して捉えていて面白いなと思った。
3. Ethereumにふれてみる
能の帰りに何故かNFTやWeb3に議論した関係で、Ethereumのプログラムを書いて遊んだりし始めた。わかったことはnoteにまとめた。あまり興味を持っていなかった領域だったが興味を持てるようになった。今後も少し注目したい。これは趣味。
4. 博論の執筆のための既往研究のリサーチ
先月のマガジンでおおよその博論の構成について考えたことを記した。今月はそれを文章にまとめようと思っていたのだが、その前提として改めて既往研究や、本論で用いたい概念の整理を始めると膨大になってしまった。ひたすら地道に必要な著作や論文を読んで整理していった。
参考になる人もいるかもしれないので、一応ざっくりとした記録を簡単にまとめておく。他にも「こんなのあるよ!」という方がいればぜひ教えてください。
長いので、特にここに興味ない人はスクロールして読み飛ばしてください。
(1) VRの哲学的研究
そもそも自分のしている研究が、VRをかなり哲学的な側面からも捉えようとするものなので、そうした研究について調べた。以下リスト。
・『バーチャル・リアリティ』, ハワード・ラインゴールド
バーチャルリアリティの概念を整理。
・『仮想現実のメタフィジックス』, マイケル・ハイム, 1993
ハイパーテキストなどのIT技術との比較からVRの可能性を論じる。時間性や物理法則といった「束縛」を再構成する場所としてのVRの特性を強調。
・『シティ・オブ・ビット』, ウィリアム・J・ミッチェル, 1996
VRなら過去のビルディングタイプはこう変化するというようなことを論じた。案外、現実ではこうだったものがVRだとこうなるよ、という形式の分析は多い。
・『ヴァーチャルという思想』, フィリップ・ケオー,1997
位置や空間などの概念はVRでどう変化するか論じている。 フィリップ・ケオーは「リアル(顕在)」と「バーチャル(潜在)」を対比させ、バーチャルとは潜在性のことだと捉える。加えて、「スクリーン」という言葉の原義は「防壁」「遮蔽物」であり、スクリーンは見せるものというよりも遮るものであることを強調。
・『ヴァーチャルとは何か?』, ピエール・レヴィ, 1995
もうちょっと言語や情報のあり方の次元でVR世界を考察しようとしている。師匠であるミシェル・セールの『アトラス』からの引用も多く、レヴィは「アクチュアル」に対して「バーチャル」を対比させる。そしてバーチャルとはある問題を別の問題へと移行させること、と言っている。例えばVRは、世界そのものを構築せずに、視覚をハックすることで空間を主体に見せるというように。
一方で、ミシェル・セールはバーチャルを考えるのは「そこの外」を考えること、という(なんのこっちゃ)。
・『ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画』, レフ・マノヴィッチ, 2013
コンピュータ世界の身体性に注目しながら議論しつつ、VRの特性を論じていく。ポチョムキンという事例を題材にして、何百マイルものジオラマを歩いていくことを通して構成される映画について論じていたり、映画館における没入の仕組みについては「観客は不動性=すなわち席に座っていて動けない、ことによってスクリーンの知覚に入り込むことができる」など議論が興味深い。
・『The Virutal and the Real』, ディビッド・チャーマーズ, 2017
これは本ではなく論文。チャーマーズはVirtualに対してRealを対比させつつ、VRをあくまでデジタルでリアルな存在として捉えるVirtual Digitalismを提唱。
参考にしたウェブサイト。同期の畑田くんに教えてもらった。
・『ヴァーチャル社会の〈哲学〉』, 大黒岳彦, 2018
現代のVRやMR世界のありようを捉える。
VR世界を現実と切り離されたものとして捉えるというよりは、VRの中の現実性を見出していく。例えばVR SNSにおいてアバターはバーチャルに見えるが会話はリアルなものであるなど。
・『Is Consciousness First in Virtual Reality?』, Mel Slater, 2022
論文。VRにおける意識と知覚について考察。個人的にはかなり粗い議論のような気がしている。畑田くんからの情報提供。
こんな感じで色々とあるのだが、こういうのをさらにふかぼって行くと「プレゼンス」や「没入」という概念の研究に行きついて行くことになる。
(2) 没入とは何か
この領域も結構カオスだが、なるべく書いてみる。
上にも出てきたMel Slaterという人が有名らしく、Slaterは没入感はVEシステムの客観的な特性と整理する(「a note on presence terminology」)。
PDFはこちらからも。
https://www.researchgate.net/publication/242608507_A_Note_on_Presence_Terminology
WitmerとSignerは没入とは、「刺激を経験の連続的な流れを提供する環境に自分が包まれ、相互作用していると認識することを特徴する心理的状態」と捉える(「Measuring Presence in Virtual Environments: A Presence Questionnaire」)
PDFファイル
http://cs.uky.edu/~sgware/reading/papers/witmer1998measuring.pdf
デイビッド・チャーマーズは没入とは、その環境内に自分が本当に存在している(Presence)という感覚を与える環境の中で生まれるものと考える(「The virtual and the real」)。
Richard Skarbezは没入感とは「プレゼンス」が発生することができる境界を提供するものと捉える。
ロンバードやマクマハンは没入を「知覚的没入」「心理的没入」と分けて捉えている(これはかなり有効に思われる)が、こうした観点から「入り込んでいる」のか、「入り込んでいると感じている」のかの違いへの注目の重要性も浮かび上がってくる。こうした中で、物語への没入に注目する研究もたくさんある。
ロンハードについては以下の2本の内容をRichard Skarbezによってまとめられている。
「Immersive virtual reality technology」
「Measuring presence: A literature-based approach to the development of a standardized paper-and-pencil instrument」
マクマハンは以下の論文。
アダムス&ローリングスやマレー、ライアンはより物語への没入に注目したりする。確かに、小説や物語を読んでいるときにその世界に入り込む感じはある。こうした経緯については、Niels Christian Nilsson やJan-Noel Thonの議論にもまとまっている。
「Immersion Revisited: A Review of Existing Definitions of Immersion and Their Relation to Different Theories of Presence」Niels Christian Nilsson
「Immersion Revisited: On the Value of a Contested Concept」Jan-Noel Thon
こうした議論は他にも1988年のNellが論考で分析を加えたりしているし、同様な物語への没入としては小山内秀和の議論がある。さらに没入(Immersion)の類似概念として対象に集中していく動作としてのTellegen & Atkinsonの「没入(Absorption)」や、物語世界への共感に注目したフェロー&アームストロングの「没頭(involvement)」、同様に物語世界への没入について捉えたGreen&Brockの「移入(Transportation)」なども出てくる。あとディドロの「忘我」という概念もある。まあとにかく多い。
『物語世界への没入体験: 読解過程における位置づけとその機能』小山内秀和
重要なことは(僕の理解によれば)、どこに入り込むのかということと(物語なのか、想像か、あるいは知覚可能な世界なのか)、どのように入り込むのか(想像か、知覚か、あるいはその両方か)ということである。
Presenceが「存在していると感じる」状態としたらImmersionは「入り込んでいると感じる」状態と整理できるだろうが、ちょっと現時点ではPresenceについてはやりきれていない。
(3) サピア・ウォーフ仮説と言語(言語相対論)
上記では物語を通した没入などにも触れたが、こうした中で「言葉によって世界が作られる」などというテーゼへの注目も必要になってくる。
以下の書籍を一通り読んで理解を整理し直してみた。「用いる言語によって見える世界は異なる」と理解されるサピア・ウォーフ仮説だが、そもそもそうした理解はサピアらがいう前からぼんやりと偏在していたらしい。
一方でかつての言語学の世界では進化論的に文化や言語を捉える向きが多かった中で、フンボルトやボアズという人たちがむしろ相対的な存在として言語を捉えようとした。すなわち言語の違いは進化レベルの違いとして存在するのではなく世界の見方の差として存在するのであり、文化の偏在はその差の偏在であるとする考え方である。
こうしたボアズの考え方は弟子のサピアに引き継がれ、ウォーフがさらに引き継ぐことになる。サピアの捉え方はこうした議論について「まあ言語の違いも多少影響するでしょ」という程度のもので「弱い仮説」と呼ばれ、「言語の差異は世界の差異!」と強く主張したウォーフの理解は「強い仮説」と呼ばれる。
しかしどうも(僕の理解によれば)こうした言語が世界の構築に左右するという言語相対論はわりかし下火らしい。例えば野矢はこうしたウォーフの理解について「仮にある単語がその文化に存在しなかったとしても、それはその概念そのものがその言語において表現できないということにはならないのではないか」と論じる。
具体的に言うと、例えば「出汁」は他の言語に単語として存在しなくても「魚や鳥などを煮るなどしてそのエキスを抽出した液体のこと」として説明できるわけで、その言語世界に概念として「出汁」が存在し得ないわけではない、という。
ただ個人的には「驟雨とか英語で説明不可能じゃない?」とか思ったりもする。2012年においてドイッチャーという人の研究では、言葉の使い方が習慣的な思考パターンを形づくり「現実感」にも影響するという、まさにVRと関わりそうな結論が出ているという。
例えばVRの中に驟雨を降らせても、日本語の知らないアメリカ人には雨にしか見えない気もするが、まあかなり議論が難しい領域であるらしい。
参考書籍は以下。
「文化人類学と言語学」サピア
「言語人類学への招待—ディスコースから文化を読む」井上ら
「言語・思考・現実」ウォーフ
「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」ガイ・ドッチャー
「英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ」金谷 武洋
(4) 社会構成主義
現実は言語を通して人々の頭の中で作られる、という考え方はサピア・ウォーフだけでなく社会構成主義の中にもみられる。デュルケームをはじめとして展開されていった考え方だが、ガーゲンという人の理論が有名らしい。現在読み進めている。
(5) 意識とクオリア
言語について少し注目してみたが、もちろん人の感じる「感じ」=クオリアのようなものは、必ずしも言語で説明できないことももちろんある。クオリアについても色々と調べてみた。わかりやすい説明によれば、意識には「レベル」(覚醒度とほぼ同義)と「中身」があり、ある程度覚醒している時に意識に浮かんでくる「中身」がクオリアであるという。これはこれでどうなんだろうという感じがするが。
(6) 想像と知覚
没入とは何かのところで「知覚的没入」と「心理的没入」というのを提示したものの、それぞれが一体何なのかは非常に難しい。
僕なりに整理し直すな、それらは「知覚的没入」と「想像的没入」とした方がわかりやすいと思っている。しかしそもそも想像と知覚はどう違うのか。その辺りをまた調べてみた。
有名なサルトルやジャック・ルゴフの議論ではイマジネールという概念が掲げられ、想像界は知覚界と対峙するものとして論じられた。スラヴォイ・ジジェクの議論では想像は人が現実を総体的に理解することを助けるような活動のことと整理している。僕の気に入っている理解はバシュラールによるもので、バシュラールによれば「想像力とは知覚によって提供されたイメージを歪曲する能力」である。すなわち人はあるイメージを想像力によって歪めることによって「想像的なもの」を作る。これが想像のプロセスである。そして次第にその「想像的なもの」は完全にイメージとして定着し、人がそのような中で行動できるようになってくる。これが「夢想」らしい。
こうした理解は例えば池上にもみられる。そこでは池上は想像の作用は「身体がおかれた現実の諸条件の制約を脱し、感覚を通じて外界から受容したメッセージを自由に料理しながら、現在を過去と未来に繋げてくれる」ものとしている。
僕自身は、「想像」「没入」「知覚」を接続していく理解としてバシュラールの理解が気に入っている。しかし考えてみると他にも「想起と想像は何が違いのか」など整理しないといけない箇所は無限にある。このあたりもまだまだ沼が深そう。
「仮想化しきれない残余」スラヴォイ・ジジェク
「イマジネール」サルトル
「空と夢」バシュラール
「ヨーロッパ中世の想像界」池上俊一
(7) 様相論
また、ある種の「クオリア」の総体としての空間体験を捉えようとした建築の議論としては原広司の「様相論」がある。VRでなされる様々な議論と相性の良さそうな建築論はこれである。
ここで原広司は、ポストモダンで問題となった空間の要素の持つ「意味」や「表層の形態」、あるいは温度などの「状態」、やそこから生まれる意味としての「快適さ」などを内包し捉える概念として「様相」を掲げている。必ずしも世界についての理解を建築論にたやる必要はないが、ある一定の指針をあたえてくれる。
「空間〈機能から様相へ〉」原広司
(8) 遊びについて
文化の中にあそびが立ち現れるのではなくむしろ、遊びから文化が立ち現れるとして様々な文化の中の遊びの要素を見出そうとしたホイジンガや、現実と切り離された場所での営みとしての特性を炙り出そうとしたカイヨワの議論などがあるので、この辺りも調べてみた。
他にもケイティ・サレンとエリック・ジャーマンはホイジンガの「マジックサークル」という概念を利用して、現実世界と遊び世界の境界を分析しようとする。ミゲル・シャールによれば、遊びとは、現実や仕事、儀式やスポーツに対比されるものではなく、むしろそれらに内包される。世界のうちに存在するモードの一つと捉える。VR世界にちょっと当ててみると、カイヨワやホイジンガの理屈はVRと現実を切り分けて捉えようとする一方で、VRの哲学的研究のところで触れた大黒は、むしろVR活動の中のリアル性を捉えようとする(例えばVR SNSはバーチャルだが、そこで行われる会話はリアルなもの)。
こうしたリアルとバーチャルを相関させて捉えようとする考え方は、井上明人のゲーム論の中にもみられる。このあたりもVRについて哲学的に捉えようとすると必要になってきますよね。
「ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み」ホイジンガ
「遊びと人間」ロジェ・カイヨワ
「ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム」イェスパー・ユール
(9) ほかにも色々
ちょっとキリがないのでこの辺りで割愛するが、このような調子で能についての文献を漁り、夢についてもかなり膨大に追加で漁り、現象学についても漁り、可能世界意味論や様相実在論についても漁っていた。ここであげたものの、大体3〜4倍くらいは読んだと思う。
あとはギブソンの議論や生態学的実在論なんかについても調べていた。他にもユクスキュルの環世界の理論を読み直したり、ネルソン・グッドマンの世界制作の方法についても整理しなおした。
あとはこれまた膨大な調査としては、「世界」という概念に関してもかなり調べて一つ一つ整理していった。この点についてもちょっとずつさらに整理していくつもりである。
ここではダラダラと(探したい人にはちょっと役に立つかなとか思って)書いたが、こうした議論はあくまで自分の博論の指針探しであって、博論の中では本当に必要最低限しか書かない。ほとんどは書かずに捨てることになる。文献の参照なんてそんなもの。
5. 博論全体の構成
さて、ここまでちょっと膨大に博論のリサーチについて書いてきたけれど、現段階で考えている博論の構成についてざっくり説明しておきたい。ややこしい部分もあるのだが、せっかくの博論noteということで、ここまでの中身を開帳しておきたいのである。まだまだ整理がついていないし、ごちゃごちゃしている部分もあるような気がするが、ひとまずの記録として。ぜひみなさまには忌憚なきコメントをいただきたい。
博論はおおよそ2つのパートから構成されることになる。前半パートでは分析が、後半パートではその解決が構想される。
まず博士論文の初めに、前提としてあるテーゼが整理される。
それは、VRのような別世界は、現実か別世界かというものではなく、むしろ2つの世界が重なり合い互いに干渉し合うその干渉の経験そのものとして立ち現れてくる、というものである。
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2025年3月に「夢における空間論」を書き上げるまで
旧「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」。博士論文を書き上げるまでの日々を綴っていました。今は延長戦中です。月に1回フランクな研究報…
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