二重人格、ではなく炎〜『JOKER フォリ・ア・ドゥ』評
『JOKERフォリ・ア・ドゥ』は、完璧な続編であり傑作だった。素晴らしかった。しかし前作『JOKER』のようなわかりやすさや、ある種の破壊の快楽のようなものはこれっぽっちもなかった。むしろ『フォリ・ア・ドゥ』は前作に熱狂した人々に真正面から中指を突き立て突き放し、作品を2作品全体で、これまでと全く異なる厚みの中で完成させてしまう。そういう作品であった。そしてその意味において傑作だった。
『フォリ・ア・ドゥ』はただし、かなりハイコンテクストな作品ではある。特に前作のいくつかの点を踏まえないと理解しづらい箇所がある。特に今作で重要なのは、右手と左手、である。
前作『JOKER』において、重要な表現と言えるのが右手と左手の区別であった。作品全体を通して、右手は理性的なものとして、左手はより抑えられていた感情的なものとして描かれていた。それは特にアーサーのタバコを吸う手などに現れていて、落ち着いている時のアーサーは右手で煙草を吸い、ジョーカーの時や落ち着いてはいるがジョーカーの火が心に灯り始めているときには左手でタバコを吸っていた。
ペンやメイクの筆は右手で扱いつつ、拳銃での発砲などの行為は全て左手で行われていた。人を殺す場面でもほとんど左手であった。特に初めてJOKERのメイクアップをする場面では鏡を用いて右手と左手が反転したり、右手でタバコをもつアーサーと左手でタバコをもつアーサーが同時に映されたりするなど、右手と左手の区分は象徴的なモチーフとして用いられていたのである。
いわばアーサーの状態は右利きであり、ジョーカーは左利きとも言えるような表現だった。
この表現の区別が、今作ではしつこいくらいに徹底されている。例えばレディ・ガガ演じるリーは冒頭で、右手で頭を打ち抜き、「理性を壊しなよ」とも取れる表現をアーサーに対してするし、話題となったガラスにジョーカーのリップを描く場面では感情の抑圧を解放する左手が用いられている。リーはただし左利きである。アーサーが自身の妄想の中でジョーカーが人を殺す場合は右利きになっている。ジョーカーは左手でタバコを吸うしアーサーは右手で吸う。
ただし、これはジョーカーとアーサーが二重人格であるということでは、全くない。それが今作で最も重要なメッセージであり主題でもあったのである。そしてこのことがこのnoteにおいて書きたいことである。以降はネタバレが含まれるので、困る方は離脱されたい。
映画の冒頭では、ジョーカーという影とアーサー=本体という2つの人格が入れ替わることを表現するアニメーションが流れる。これは実に安っぽく、よくできていない子供じみたアニメーションなのだが、その後に、実写が始まる。
冒頭のアニメーションは物語全体の筋を示している、という考察もあったようだが、そんなわけはない。映画の本質を冒頭のアニメーションで示したのなら、それで映画は終わりだ。小説の冒頭に、「この小説の主題はこれですよ」と一言で書いてしまうようなものだ。一言で言えるようなことなら、小説を書く必要はない。冒頭のアニメーションで表現できてしまうことなら、映画を作る意味はないのだ。
あのアニメーションはむしろ、前作の流れを振り返りつつ、多くの人の安易な理解を否定してもいる。いわば「この物語はジョーカーとアーサーが入れ替わる二重人格ということではないですよ」「ジョーカーは二重人格だった!というような子供騙しのお話ではないですよ」という意味なのであり、その後の実写スタートは「これは子供騙しでなく、極めて現実的な、リアルのお話なのです」というメッセージそのものなのである。
物語の序盤において「アーサーとジョーカーは二重人格か」という裁判が中心的に展開される。この裁判は前作『JOKER』の中でアーサーが犯した5つの殺人に対するものであり、罪を犯したのはアーサーか、ジョーカーか、という二項対立的な構造で周囲の話し合いは進んでいくのである。観ていても段々とうんざりしてくるのだが、この流れはむしろフリであって主題ではない。その構図は、アーサーの味方の弁護士のアーサー自身による解任によって壊される。
興味深いのは、冒頭からアーサーは左手でタバコを吸っていることである。収監されたアーサーは看守からのひどい虐待に遭い痩せ細って押し黙っている。しかし左手でタバコを吸っているということは、それはジョーカーである。同時に、右利きのアーサーも随所に登場する。特にリーに認められ始めたあたりから登場する。
物語全体を通して、気弱な調子のはずれたことをいったり、妄想に浸ったりする場面ではアーサーは右利きで(例えば裁判中に「リーにより良い席を用意して」と弁護士に筆談で伝える場面では右手を用いている)、攻撃的な場面では左利きで描かれる。これらの表現に、この物語は二項対立的な物語ではないですよ、ということが明示されているのである。二項対立で論を進める周囲の歪みと、弱々しくもすでにジョーカーにもなっているアーサー。このアンバランスが前半部分の見どころである。
『フォリ・ア・ドゥ』にしても前作にしても、ジョーカーを二重人格者として描かないのは、この作品を社会それ自体から切り離さないためであろう。精神病患者が起こした犯行が一連の事件だとすると、ジョーカーの犯行やそれに付随する暴動は異常状態の精神病患者の問題ということになってしまう。だとすればあの映画は頭のおかしい人たちを描いただけのものであって、一般人とは関係がない。いわば二重人格説は、ジョーカーという問題を社会から切り離す。そうでなくて、ジョーカーもジョーカーの支持者の発生の問題も、実際に普通の、普段の社会で起こっていることなのである。戦争や暴走。貧困が生む暴力やその社会への伝搬。それは「変な人たちの問題」でなく「私たち」の問題なのである。
人は本心か表面上の心かという二項対立的な心を持って生きているのではない。人間の本心が溢れ出し燃え始める時、それは弱火で仄めくこともあれば豪火となって燃え盛ることもある。いわばジョーカーとは、火のようなものである。それがこの作品群の主題であろう。火がついている状態のアーサーこそがジョーカーであって、火のついていないジョーカーがアーサーである。弱火でも火がほのめいていれば、一見アーサーのように見えてもジョーカーの状態に近い。アーサーの気弱さ、自信のなさは燃料でもあり、おとなしいということと暴力性もまた二項対立でなく、おとなしいからこそ暴力性が燃え盛る、ということもまたある。言うなれば、どちらもジョーカーでありアーサーなのであり、本体か影か、という二項対立でなく存在は常に共存している。そしてジョーカーの火が伝搬して燃え盛る周囲を見て自分が認められたと承認欲求が満たされ喜ぶのはアーサー自身なのである。
収監され精気を失ったアーサーの前に現れたリー(レディ・ガガ)は左手でタバコを吸い、右手で頭を打ち抜き、アーサーをジョーカーとして復活するようにけしかける。その時、リーは「私は放火をしたので捕まった」とアーサーに伝える。その後も実際に放火するなど、リーは火が燃えるのを見るのが好きな人、として描かれる。リーは「燃やす」ことが何より好きなのである。
いわば、ジョーカーの弱くなった「火」をリーが油を注いで可能な限り燃やし、それが社会に伝わる時どうなって行くのか?という展開が本作の中心的構造なのであった。そしてリーが焚き付けたジョーカーの「火」は燃え盛り、その業火は周囲に伝播し、周囲もまた人を殺し始める。やがてアーサーはジョーカーの火を消し正気に帰るが、自身の火が消えても、その火は自身に移り、やがてアーサーはその火に焼かれてしまう。それがこの映画のクライマックスに向かって行く流れである。
この「火」が燃えることのメタファーは、歌であった。本作は一部ミュージカルのように、アーサーやリーが歌う場面が数多く登場する。前作は素晴らしい楽曲をもとに映画が出来上がっており、いわばアーサーは既存の曲に乗って踊っていたのに対し、今作は自身の物語を紡ぐように歌い始めるのだった。
世間から優秀な刑務官として期待されることを狙った男の勧めでアーサーは歌を習い始め、そこでリーと出会う。アーサーは歌を覚え、自身の歌を歌い始めるが、次第にまるでリーに歌わされているようになり、そのことに気付いたアーサーは歌うことを嫌がる場面も出てくる。
映画を見ているとこの場面では、あれ?レディ・ガガの迫力が凄すぎて、ジョーカーであるホアキン・フェニックスがおまけみたいだぞ?と思うのだが、ジョーカーの「火」が燃えてくるにつれ、ホアキンの演技の迫力が爆発し、まるでレディ・ガガすら自分のための伴奏のように従え歌い始める。この辺りの演出が本当に素晴らしい。アーサーとリーが出会い、通じ合い暴走して行くまでの難しい流れは、このデュエットの連打のような技法で論理的な流れを超えて盛り上げられ、リーに歌わされていたアーサーは主役として歌い始める。歌わされていた存在から歌う存在への転換。そのための音楽。ミュージカルが多すぎるという批判もあったようだが、あれは歌っているという演出や音楽的なノリの良さに意味があるのではないだろう。
歌そのものというよりもむしろそれぞれの歌い方の変化こそが重要である。つまり、歌は放火の場面なのである。リーによる放火のプロセスが歌の場面であり、油がうまく燃えなかったり風に吹かれて消えかけたりしながら豪火になっていく様を描くのがあの演出であるから、ものを燃やす時にはただ火をつけ風を送り燃料をくべるなど手間がかかるものであるように、歌の頻度が物語の中で多くなるのはいかんせん仕方ない。というよりむしろ、その違和感、ある種の不快さこそが重要なのである。
今作は別にミュージカル映画ではないから、映画をただ盛り上げるおためごかしとして歌があるわけではない。「長いなあ」「あんまりスッキリ入ってこないなあ」というミュージカルシーンの違和感がまず初めにあって、その”放火”が豪火に変わっていく中で歌が自然なものとして伝播していくという違和感→自然への変化こそ重要なのであり、その変化の中で僕らは火が燃え移っていくことを身体的に体感できるのである。だからこそ映画の最後でリーはもう一度階段でアーサーに歌を歌い、歌を止めろと制止するアーサーをみて、火をつけても燃えないアーサーに呆れ「さようならアーサー」と言い残して消えることになるのである。
仮にミュージカルが減ってしまえば、それは簡単に火がついたことになり、リーがアーサーに火をつけるという構造の価値も薄れてしまう。歌が多いと感じるのは、それはリーの火をつける苦労の量なのである。そして後半になれば、その業火は異様な速さで周囲に燃え広がっていく。歌い方の変化の重ねの中で、二人の間の共鳴が、理解できないが納得できるというこの一連の演出の展開はなかなか震え上がるものがある。
前作を通して、人を笑わせることこそ価値と思っていたアーサーはピエロになり、ジョーカーとなっていった。そして今作の物語の後半でゲイリー・パドルズという前作の大道芸人仲間だった男が法廷に出廷する。ジョーカーはゲイリーの名前を茶化し、笑いものにしようとする。しかし見た目が人と異なることで笑われてきたゲイリーは、「僕を笑わないでいてくれた君が嬉しかった」と伝える。ここで、大きな価値転換がアーサーの中で起こる。いわば人を笑わせることこそ価値と信じてきたアーサーにとって、笑わないこともまた価値でありうるという転換が起こり、そのことによって人を笑わすことの権化として作り上げられたジョーカーという存在の火が瞬時に消えていってしまうのであった。しかし周囲に伝搬した火はアーサーを追い立て、次第に追い詰めていく。火の消えたアーサーを見下すリーはアーサーを前にして一人で歌い始め、アーサーはリーに歌をやめろ、と乞う。アーサーは正気に戻ってくるが、リーは戻ってこない。そして周囲の火はアーサーを取り残して燃え続け、やがてアーサー自身を焼いて行くのである。
前作『JOKER』の冒頭で、悪ガキに看板を奪われピエロの格好で追いかけていたアーサーは、今作の終盤で反対にジョーカーの扮装をした人たちに追われる。そして前作の冒頭でバスから周囲を眺めていたアーサーは、『フォリ・ア・ドゥ』の最後ではパトカーから、しかし前作とほとんど同じ構図で外を眺めている。アーサーが他者を追いかけることから始まり、アーサーが他者に追われてこの2部作品は完結した。映画は、冒頭の位置から、同じ位置へ帰ってきて終焉する。そこでこの作品はループのような構造に入る。まるで堂々巡りを続ける社会の営みそのもののように。
僕は、前作の『JOKER』に感動した一人である。なんという物語の緻密さだろうと思ったし、撮影監督であるローレンス・シャーの美しい光の演出や絵の美しさにも感動した。そして正直に言って、鬱勃とした気持ちがすかっとするような快楽があった。しかしだからこそ、周囲に「好き」とは言えない映画でもあった。何回も見たし、凄いとは言えるが、好きとは言えない。それは自分の隠した裏ぶれた気持ちや欲求との共鳴こそが前作『JOKER』の快楽であり、それは現実逃避とも言えるものだったからである。
そしてその快楽の愚かさがはっきりと突きつけられたのが今作であった。前作はフリであり、今回がオチだった。鬱勃とした気持ちを肯定してくれるのが『JOKER』だったと思ったら、それがフリであり、愚かさによって自身が焼かれる様を見せつけられるのが『JOKER』『JOKER フォリ・ア・ドゥ』という作品群であった。『JOKER』を好きだった人ほど、前作の快楽を否定されただろう。僕たちは真っ向から中指を突きつけられた。おそらくはそれが、前作『JOKER』の支持派から今作が応援されない理由であり、評価が真っ二つになっている理由であろうと思われる。
とはいえ、この『フォリ・ア・ドゥ』によって、『JOKER』という作品がより現実と接続され、前作の快楽の意味すら明確に書き換えられたという点において、『フォリ・ア・ドゥ』は完璧な続編であると言えると思う。ちなみにアーサーの物語は円環で閉じた、と書いたが、それと対照的なのが映画の最後に流れるレディ・ガガによる『That`s Life』である。
前作において完璧なタイミングで流れたフランク・シナトラによる『That’s’ Life』が、「まあ人生そういうこともあるよね」というある種の受け入れと許容、成熟に満たされた安定感と安心感のある歌い方によるものであり、それが暴力と共に描かれるというズレに迫力があったのに対して、今作の最後に流れるレディ・ガガの『That`s Life』は、もっと不安定で、まるで炎のように揺れている。そして歌は後半に近づくにつれ激しく燃え上がっていくのである。ジョーカーに端を発するリーの炎はアーサーと別れてもなお燃え続けていくのであり、その“歌”こそが我々に恐怖を与える結末となっている。
Folie à deuxとはフランス語で「二人狂い」を意味し、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有していく感応精神病のことである。メタファーとしての「火」と演出としての「歌」がこの感染の表現となっている。我々は今そのような社会に生きている。ある種の妄想に支配され突き動かされ、社会は混乱の中にあり続けているのである。前作『JOKER』が、アーサー一人の火に主題を置いた物語だったとしたら、今作はそれが外部に燃え広がり、それが自身の火も強め、また自分の火が消えても自分から移った火に焼かれてしまうこともあるという、燃やす-燃やされるという人間と社会の不可分な関係を描いた作品だった。そしてその展開によって自身の暴力の火を燃やすことの愚かさを、理念としての説明ではなく現象として表現し否定したのが、本作の意義と言える。それこそが今作が“完璧な続編”といえる理由である。
燃やされるのは気弱さと承認欲求を燃料とされるアーサーであり、燃えるのはジョーカーであり、それが周囲に伝播して喜ぶのはアーサー。“火”とは何か、“燃える”とは何か。人間とは、社会とは。そういうことを真っ向から問い詰めているのが本作『JOKER フォリ・ア・ドゥ』なのである。
(終わり)
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