老いるということ
私は、明日から成人になる。
らしい。
今日3月31日が終わって、成人になっても私自身の中身は何も変わらないけれど、社会的な立ち位置はきっと変化してしまう。
18歳になれば私の何かが死んでしまう。
と考えていた幼少期は正しかったのかもしれない
18歳の誕生日を迎えた日、私は初めて大きな喪失感を味わった。これから私は大人になって老いていくしかないんだと屈辱を浴びせられた気分だった。
死にたいとか生きたいとかそんなの別にどうでもいいやとか、この三つの感情のローテーションで毎日生きてきた。死にたい時に生きたいと思えていること、生きたい時に明日死んでもいいやと思えていること、別にどうでもいい時に何も考えずに生活できていることが私の1番の幸せだった。そうやって生きながらえてきた。きっとそれは変わらない。そう信じていたい。
17歳までは、明日老いるということへの恐怖よりも今苦しんでいることが明日から迫ってくる恐怖を感じていた。明日老いていることへの恐怖の原因はきっと誕生日を迎えた途端成人年齢という大人と認識される指針が数字としてはっきりと現れたからだ。認めたら子供くさくて嫌なんだけど大人になりたくはないのだろう。
制服を着て守られた校舎で生活して、子供だからって都合のいい時は優しくしてもらえて、都合のいい時はもう大人なんだからしっかりしなさいと言われて、あっちこっち大人も子供も行き来できて17歳は少女の最年長みたいな小学六年生の時に感じた謎の権力を持っていて最強だったのだと思う。
失えば何かを得られるからと信じて何かを捨ててきたりどうしても捨てられなかったり捨てたものを取り戻しにいった。
子供を捨てたら大人が迫ってくる。大人を捨てることはできない。大人も子供も好きじゃないから今の私が好き。消去法が故の少女への好意。愛しさ。私は子供だし大人だしだから少女というか女の子。女の子っていう言葉、女の子供って言われているみたいで幼稚園の時好きじゃなかったけど、今は好きというかそうでありたいと思える。女の子として人生全うしていきたい。もう2、3年後には私は少女って叫べないから。
前まで色んな色を吸収して綺麗な黒色になることのできる素敵なおばあちゃんになりたいと願っていたのに。
成人が迫って急に老いたくないって悩まさられるなんて可笑しいね。基本私は現状維持は嫌いで、できるだけ進化し続けて自分を好きになれるようになりたい。これは人生の目標の一つだったはずなのに矛盾しているね。
老いればそれだけ経験を積むことができて叶えられる夢が増えていつ死んでもいいと思える日が増えていく。
でも最近桜を見て感動することがあまりなくなった。いつのまにか桜が満開になって散るようになった。今年も春がきたなと感じるだけになった。老いればそれだけ感動も日常に変わっていく。
とてつもなく悲しくて寂しかった。
周りの景色と私の脳の感情がねじれの関係性で点と点が合わさるような感触が消えてしまった。
老いはどう抗っても迫ってくる。
どうせ逃げたって捕まることは決定事項。
ずっと若くありたいと思う訳ではないのに明日が鬱。
地球最後の日みたい。
明日の私が少女を捨てられなくても大人という肩書きを受けいられるように。地球最後の日はせめて曖昧な18歳の少女で女の子の私として記録されたい。
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