本の中の本〜読書は続く
本を読んでいると、時々その物語に出てくる本が気になることがある。
その中でも運命的な出会いをしたなぁと思うのが、小山清という作家の執筆した『落穂拾い』。この本は『ビブリア古書堂の事件手帖』の中に登場する。
内容としては、人付き合いが苦手で世渡り下手、貧しい作家の日々の暮らしを綴った日記のようなものなのだが、不思議に心に響いてきて穏やかな気持ちにさせられる。その中でも一番今の自分が影響を受けているのがこの言葉。
凡の真実は語るに適せぬことを、
云わぬがよいことを承知している人
〜『落穂拾い』より抜粋
何げなく言った言葉、もしくは意図して投げかけた言葉によって、思いがけず苦い経験を持つかたも多いのではないだろうか。誤解である、とか自分の中で熟慮した言葉なのだ、というのは他人には通用しないようだ。なぜなら言葉というものはその言葉を受けとめた人の感じ方次第なのだから...。
何事にも自分なりの意見や規定を持つことは大切なことなのだけれど、それは語るに適しているか、また今語るべき時期なのかと考えた時に、いつもこの言葉が頭をよぎる。
『落穂拾い』の中で描かれる作家の日常は、何も特別なものが書かれているわけではない。お米を研いだり野菜を刻んだりしているうちに気持ちも紛れ、いつしか涙も乾いてくるような何げない日々。
「悲しむ人の涙を優しく拭ってやれたなら。誰かに贈り物をするような心で書けたらなあ」という主旨の言葉を呟く主人公の思いは、まさに小山清という作家の思いなのだろう。そしてそんな彼が残してくれた言葉は時代を経て、私にひとつの指標を与えてくれる大切な贈り物のように感じている。
その人のためになにか役に立つということを抜きにして、僕達がお互いに必要とし合う間柄になれたなら、どんなにいいことだろう。
〜『落穂拾い』より抜粋