民俗学小話②両面宿儺と青春アミーゴ
(メイン画像:©芥見下々/集英社)
最近、呪術廻戦の話をする機会があった。
本作の主要な悪役キャラである両面宿儺が、歴史書に名の見える怪人ということは知られているようだったが、どうにも九尾の狐や酒呑童子のような大妖怪みたいなイメージになっているらしい、
民俗学マニアとしては、ちょっと訂正しておきたいところだ。というわけで語らせてほしい。
彼がはじめに知名度を上げたのはネット怪談だろう。いわゆる洒落怖スレから広まった怪異は、八尺様を筆頭にいくつか挙げられるが、『リョウメンスクナ』は比較的人気のあった話のひとつだ。
で、怪談人気も衰えてきた頃、週刊少年ジャンプで呪術廻戦の連載が始まった。本作の人気に火が付く中で、宿儺の知名度も爆発的に高まった。
わざわざこの記事を開いている人は、おそらく呪術廻戦のキャラクターとしての宿儺をご存じだろうと思う。
が、おそらく宿儺が悪役に据えられた背景には、ネット文化があるのではないかと思う。
(本題に入る前から余談というのもどうかと思うが補足すると、作中で出てくる死滅回遊という言葉も、おそらく洒落怖から知ったのではないかと邪推している)
歴史書に出てくる宿儺
さて、まず彼の名がどのように歴史に残っているか見てみよう。
古代日本において、ヤマト王権・大和朝廷が地方の対抗勢力を次々呑み込んでいったことは皆さま漠然とご存じだろう。権力とは、常にそれに反発するものと、血みどろの争いを繰り広げるものだ。
ヤマト王権が戦った、地方の暴れん坊のひとりが、両面宿儺だった。
ちなみに、名前は『宿儺』の部分。両面というのは、その姿からつけられたあだ名になる。
ひとつの体から、前後に四肢が2セット生えた姿。四本の脚と四本の腕を持ち、頭が二つある怪人。
そんな宿儺が登場するのは『日本書紀』。
宿儺という怪人が、朝廷に反抗して暴れているので、ヤマトの将軍・武振熊命(たけふるくまのみこと)が派遣される。
で、とくに苦戦したという描写もなく、さくっと鎮圧された。
という概略なのだが、実際の文章は以下の通り。
呪術廻戦の描写とは、少し異なる部分が多い。
漫画なので、別に元ネタそのままである必要はないのだが。
たとえば呪術廻戦の宿儺は、本来前後両面を向いているべきパーツが、いずれも前方を向いている。普通の人間にパーツだけ増やしたようなかたちだ。
まぁ、元ネタ通りの姿だと動かしづらいので仕方がない。
また、そもそも宿儺は大して強くない。地元で暴れていました、程度のことしか書かれていないのだ。
強大な怪物であれば、他の文献にも名前が残っていて然るべきだ。
これは、少なくとも権力者側や他地方の文献には見当たらない。宿儺が実在したとしても大した敵ではなかったのだろう。
一方、地元・飛騨には宿儺の伝承がいろいろ残っている。
農業を教えたとか、寺社を建立したという話が多い。
後世で作られた逸話も多いだろうが、そうだとしても、日本書紀のモブやられ役をわざわざ英雄視して引用してくる必要はないだろう。となると、ある程度の実在性が見いだせる。
とはいえ、お寺を建てたという伝説は眉唾物だ。いくつものお寺が、そういう成り立ちを伝承されてはいるのだが、残念ながら疑わしい。
仏教が日本に伝来したのは552年と言われている。この552年というのはあくまで公的な記録の話であって、民間ではもう少し早く伝来していたかもしれない。
リョウメンスクナは6世紀初頭の人なので、たしかに当時すでに仏教が伝来していた可能性はゼロではない。
ただ、飛騨の山奥まで布教が行き届き、民間に浸透していたとは考え難いだろう。彼がいくつもお寺を作ったというのは、おおむねガセネタといえる。
ではなぜ彼が仏教に紐づいたか。これは至極単純な話だ。仏像を思い浮かべてもらえばわかるが、仏様の世界じゃ顔や腕がいくつもあるのはよくある話と言える。
要は宿儺の身体的特徴は、仏様っぽいのだ。
類似の伝承
ところで、宿儺の手足を数えると8本となる。
8本。何か思い出さないだろうか?
そう、蜘蛛だ。
実は、近い時代のお話で、他にも蜘蛛という名称が登場する。
土蜘蛛。
後世では妖怪扱いになっている名だが、これは当時、大和王権に敵対していた、地方の一部勢力を指す言葉だった。
こうした事例を見るに、ヤマト王権の歴史では、反逆者たちを人外の怪物として描くことで、戦争を正当化してきた部分があるのだろう。
ちなみに、土蜘蛛以外だとオニという言葉も、反抗勢力を指して使われている。
宿儺はなぜ『勢力』でなく『個』なのか
さて、ここで不思議なのは、宿儺という存在が、ゲームのボスキャラのごとく、唯一無二のモンスターである点だ。
勢力全体を怪物扱いするのであれば、土蜘蛛・オニのように、種族名のようなものを付与すべきだろう。
固有名をもつ例は他にもあるが、たとえば岡山にいた温羅という怪物は、鬼のリーダーという立場だった。種族が先にあって、その代表者として名を持っているのだ。
ところが、宿儺にはそれがない。
怪物軍団のリーダーだったのか、それとも人間を怪人が取り仕切っていたのか。
なぜ宿儺という怪人は『個』なのだろう?
という考察は、あくまで私見であり、きちんとした学説ではないので、ここから先は参考程度にお読みください。
さて、この宿儺という幻想を作り出す必要性は何だったかと考えたときに、ひとつの仮定が浮かぶ。
それは、『大した敵じゃなかったけど、都合上、すごい業績かのように演出する必要があった』という背景だ。
この宿儺討伐を成し遂げた将軍は、先述の通り武振熊命だ。
彼の功績を強調するために、『ただの雑魚狩りではなく、怪物を打倒したのだ』というストーリーが必要だったとすれば、どうだろう。
武振熊命に関する話を探ると、実は、古事記と日本書紀で記述の違う部分がある。
具体的なエピソードを見る前に、この2書物の位置づけの違いを確認しておこう。
今では記紀と並び称されるこれらだが、実のところ、朝廷がメインの歴史書として扱っていたのは日本書紀の方だ。古事記は江戸時代に学者たちが注目し始めて知名度を上げたという経緯がある。
そういう意味では、日本書紀の記述の方が、より強く王権の意図が反映されていると言えよう。
ただし、注意点もある。
古事記は1本のシナリオとして体裁を整えられているので、そういう意味では古事記の方が意図的に編纂されているのだ。
情報の『集約』は古事記、情報の『ごまかし』は日本書紀の得意分野といえるだろう。
で、実際武振熊命のエピソードにどんな違いがあるのかというと、だ。
あるとき、武振熊命は、武内宿禰(たけうちのすくね)という将軍とともに、忍熊王なる敵を倒しにいった。
敵と言っても、宿儺と少し違うのは、地方勢力ではなく歴とした朝廷内の一勢力だという点だ。いわば内乱の鎮圧である。
古事記の内容を見ると、敵を打ち破った英雄は、二人のうち武振熊命の方だ。すべての功績が武振熊命のものとなっている。ところが、日本書記では武内宿禰が敵の武器を失わせ、大きな戦果を上げたことになっている。
本来は武振熊命の功績だったものが、他の人物に奪われたわけだ。
このとき、埋め合わせとして武振熊命にプレゼントされたのが、宿儺という戦果だったのかもしれない。プレゼントというか、もともと持っていた業績を、誇大化されたといったところだろうか。
―—という考えを成立させるには、なぜ武内宿禰に大きな武功を与えて格上げする必要があったかが重要だ。
これは非常に明快な答えがある。
朝廷内で大きな権力を持っていた有力層に、この武内宿禰を先祖と掲げる連中が多かったのだ。葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏……とくに蘇我氏は現代でも有名だろう。
武内宿禰という英雄は、何代にもわたって天皇のそばに仕えた大人物だ。有力氏族たちの祖として、理想的な忠臣の姿を演出された、ある種の伝説とされる。実在性はあまりない。
そんな彼なので、エピソードは豊富なのだが、なぜことさらに忍熊王討伐という功績を与える必要があったのかというと、それが特別大きな出来事だったからだ。
武内宿禰や武振熊命が属する神功皇后勢力。これに敵対する忍熊王勢力。政治的抗争の正義は、果たしてどちらにあったのか。
神功皇后側は勝者として偉大な歴史を語られていくことになるが、正当な王権の担い手は忍熊王側であったとする説もある。反乱を起こしたのは神功皇后側だったというわけだ。
説が正しいかどうかはさておき、そうした説も唱えられるくらいには、忍熊王というのは大きな存在だった。
ちなみに、権力構造から追いやられた武振熊命を先祖と掲げる和珥氏も、それなりに有力な氏族ではあった。和珥氏自体に有名人は少ないが、分岐した氏族の中からは、小野妹子や柿本人麻呂といったSRくらいの偉人が排出されている。
ただ、やっぱり武内宿禰系統の権威には及ばないというのが実情だ。なんといっても蘇我氏がヤバすぎる。彼らが圧倒的な力をつける頃には、和珥氏の子孫はすっかり権力のステージから姿を消していた。
総括
宿儺の話を掘り下げていくと、こんな感じになる。後半、宿儺は名前も出てこなかったけど。
宿儺という存在は、地元では名の知られた有力者だったかもしれないが、全国的にはそうではない。
ふたつの体が合体した怪人が、地元で力を奮っていただけ。
つまり、俺たちはいつでもふたりでひとつだったし、地元じゃ負け知らずなのだ。
これが言いたかっただけなので、ここで記事を終える。
あ、そういや呪術廻戦でも東堂が青春アミーゴの歌詞引用してたね。