ハイドンが好きな男はいない (連作短編9)
小清水の自信なさげな声にビクッと身体を反応させた看板娘は驚いた顔で振り向いた。
「あの、ここのパンおいしいですね。いつもおいしくいただいてます」
話し終えたあとに重複していることに気づいた小清水だったが、看板娘の当惑の表情が明るく変わるさまを目の当たりにした。
「ありがとうございます。いつも買ってくださってますよね」
「そんな言うほど常連でもないです」
「いえいえ、そんなことないです」
はにかむ看板娘を見ながら温泉に浸かっているかのような暖かな心地よさが小清水の身体を満たした。
「いつもクラシック流れてますよね」
小清水は“本題”へと足を踏み入れた。
「父が好きなんです。私は詳しくないんですけどね」
微笑んだ看板娘の隣に「えへへ」という漫画の吹き出しが見えた。
「僕はクラシックが大好きで。いま流れてるのはハイドンの『ひばり』という曲です」
「お詳しいんですね」
看板娘は接客業らしい相槌を打った。
「閉店のときによく流れてますよね」
「よく知ってますね! なんか父の思い出の曲みたいで、開店と閉店のときに流してるんです。『俺の一日はハイドンで始まりハイドンで終わる』とか言ってましたね」
困ったような顔をする看板娘も魅力的だなと小清水は青磁の鑑定をする骨董屋のような目つきで彼女の顔をまじまじと見つめた。
「僕はハイドン好きですよ」
好きですよ、を言うときに若干言葉が震えた小清水であったが、看板娘はそれには気づかない様子だった。
「ハイドンってモーツァルトのころの作曲家でしたっけ」
看板娘の絶妙なパスを小清水はしっかりとインサイドで受け止めた。
「そうですね。モーツァルトよりは24歳年上でしたけど、深い尊敬と友情で結ばれていたようですね」
結ばれていた、の部分でまたもや声が震えた小清水を今度ばかりは看板娘も若干怪訝な目つきで見た。
「モーツァルトは天才肌ですが、ハイドンはもっとこう手練手管というかテクニシャンです」
言ってしまってから卑猥な言葉を発したようで赤面した小清水であったが、看板娘はほどほどの興味で話に興味を示している様子だった。
「ユーモアとかウィットとか、機知に富んでる音楽なんです」
言ってからユーモアとウィットと機知の違いを説明できないことに小清水は気がついた。
「ハイドンはジョークセンスがいいんですね」
看板娘の再度のパスを今度は胸で受け止める小清水。
「聴衆をびっくりさせたり、わかりやすいジョークもあるんですけど、音楽の随所に仕掛けが込められていて、楽譜が読めたらそういうのもわかるのかなって思うんです。僕は聴くばっかりなもので」
小清水が自嘲気味に笑うと、看板娘が2秒遅れて追従笑いをした。
「すいません、つい話が長くなってしまいました。そろそろ閉店ですよね」
小清水が腕時計を見る仕草をすると、看板娘は
「いえ、こちらこそ興味深いお話をありがとうございました。父とお話が合うんじゃないかと思って聞いてました」
と言った。
その瞬間、看板娘の父親に結婚の挨拶をする場面が脳内に浮かんだ小清水であったが、無論そんなはしたない妄想を悟られるわけにはいかない。平然を装った。
「こちらこそ楽しい時間をありがとうございました。申し遅れましたが、小清水健一と申します」
突然の自己紹介に呆気にとられた様子の看板娘だったが、
「小清水さんですね。私は金原といいます。これからもお店にいらしていただけると嬉しいです」
と慌てて言った。
「金原さんですか。もしかしてひとみさんですか?」
「違いますよー。下の名前は卯佳っていいます。卯年の卯に、人偏に土二つの佳です。変わった名前ですよね」
「そんなことないです。ユニークで素敵なお名前だと思いますよ」
古典的な策が奏功したことに密かににんまりした小清水だったが、水田真理に続いて再び変わったフルネームの女性に出会ったことに前世の因縁を感じずにはいられなかった。