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ハイドンが好きな男はいない (連作短編10)

 違いのわからない男・小清水健一は恋の手練手管がわからないくせにつまらぬ策を弄するのを好んだ。策士レベルなら策に溺れたりもするが、そこまで達してはいないので溺れる心配はないのだった。
 小細工で看板娘の下の名前を聞き出した小清水は、心の中で卯佳さんと呼びかけた。
 それにしても「かねはらうか」とは。両親は何とも思わなかったのだろうか。よほど「卯佳」という名前にしたかったのだろう。
 卯年生まれだとしたら24歳? 大人びて見えるからもう少し上だと思っていた。
 末期の走馬灯のごとく、小清水の脳内で妄想という名の電車が走り出す。
「いろいろお話ができて楽しかったです。では」
 小清水がにっこり微笑みかけると卯佳は苦い食べ物を口に入れたかのように一瞬顔を顰めたが、すぐにいつもの商売用の笑顔で応じた。
 店を出た小清水の足取りは軽かった。ついに意中の看板娘と会話ができた。しかも名前を聞き出すことまでできた。誰も見てないのをいいことに齢38のおっさんの足は自然とスキップを繰り返していた。
 脳内でchayの「あなたに恋をしてみました」のサビがリフレインする。こういうときはクラシックよりもJ-POPのわかりやすい歌詞がよい。
 自宅に帰ってキッチンを覗くと母の和江が麻婆豆腐を作っているところだった。葱をみじり切りにし終えて、ちょうどひき肉を炒めている。
「あら、遅かったんじゃない?」
 和江が怪訝な顔をする。
「ん? そうかな」
「どこか寄り道してたの?」
「犬も歩けば棒に当たる。俺も棒に当たったよ」
 ニヤニヤしながら自室に戻る小清水を見て母は呆気にとられたが、いつものことと思い直して片栗粉の袋を鋏で切った。
 夕食は麻婆豆腐にレタスとミニトマトとかいわれのサラダ、惣菜のコロッケだった。コロッケは妹の日向が働いているスーパーたましろの売れ残りをパート価格で昨日安く買ってきたものだ。
 日向は22時すぎまで働いてるので、家族4人で食卓を囲んだ。父の昇は白い肌着に短パンというラフな格好だった。
 チャンネルの主導権は今年68になる昇が握っている。タレントがおバカな解答をしてみんなで面白がる低俗なバラエティが小清水の晩飯をまずくした。手応えのない問題ばかりだな、と昇は言うなり大きなくしゃみをした。
 番組を見ながら、クラシック関係のクイズってほとんど出ないよなと小清水は思った。カラヤン、小澤征爾、反田恭平、フジコ・ヘミングあたりなら作れそうなものだが。クライバーやチェリビダッケなんて、クイズ王でも知らなそうだ。
 いや、卑しくもクイズ王を自称するならハレ管の現在の首席指揮者も知っているのかもしれない。そうであってほしかった。

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こはだ@クラシックジョーク
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