祈りの彫像 カーチュン・ウォン/日本フィルのマーラー交響曲第3番(2日目)
昨日に引き続いて……😅
マーラー:交響曲第3番 ニ短調
指揮:カーチュン・ウォン
メゾ・ソプラノ:山下牧子
女声合唱:harmonia ensemble
児童合唱:東京少年少女合唱隊
2日続けて同プロは朝比奈以来かしら😅
昨日の感想はこちら。
大好きなマラ3を大好きなカーチュンで聴けるのだから……🥹
今回は障害割がお得な日本フィルならではの試みをしてみた。
昨日はRAで、今日は2階Cの真ん中へんで聴いた。
私は指揮者の表情や動きがよくわかるステージまわりの席が好きなので、正面で聴いたのはものすごく久しぶり。
聴いてみて思ったのは音のバランスはいいし見切れもないのだけれど、やはり私には視覚的な要素がコンサートの大きな楽しみなので舞台まわりがいいなということ😅
今日のコンサートはひどかった!!😂
演奏じゃありません。客席のノイズです。
マーラーの3番って100分あるけど、70分以上絶えず何かの音がしてたんじゃないだろうか。
第1楽章と第6楽章では鈴の音が😂
マーラーで鈴が鳴ると「4番ですか?」って言いたくなっちゃうね😂
第4楽章の終わり、オケが減衰する場面で大きな咳払いが2つ😂
一番ひどかったのはセロファンを触る音が最初から最後まで長時間継続して起きていたこと。第2楽章なんて9割くらいの部分で音が響いていた。
ポテチ食べながら聴いてるのか?って思うレベル。飴袋を開ける音ならそんなに長く響かないはず。
2階席後方の客?
でも、天井から聞こえるような気もした。会場全体にやたらと響くのだ。
今日はライブ中継をしていたうえ、CDのための録音もしていたので、録音ブースの人がずっとお菓子食べながら聞いてて、その音が何かのミスでホールに筒抜けでずっと響いてるのか?と思ったくらいだ。
一人のマナー悪い客が出せる量(大きさと長さ)の騒音ではなかった。
以前、東京芸術劇場でダウスゴー/都響のニールセンを聴いたときにコンサートの最初から最後まで補聴器のハウリングが鳴り続けたのも閉口したが、今日のコンサートはここ3年で最悪。
よりによってマラ3みたいな超大編成のコンサートでこの騒音とは😓
出演者に申し訳ない気持ちになった。「一流の聴き手なくして一流の演奏なし」が私の持論。こんな客席でごめんなさいと心の中で謝った😭
演奏解釈の大きな違いはないが、第1楽章はもともと長い上、カーチュンの音楽作りは耳障りのよい流麗さを拒否してフレーズごとに区切るような感じなので、長い!と何度も感じてしまった。
昨日勘違いしていたことといえば、バンダのスネアドラムはLAのロビーではなく、LA側のPのロビーで叩かせていたことと、最後のシンバルは7人だったということ。
昨日はRAだったから2人見切れてたのだ😅
何せノイズがひどすぎるので音楽に全く乗れない。
昨日聴いておいてよかったと心底思った。昨日の感動を100としたら、今日の感動は15くらいだった🥲
2階センターだからオーケストラとの距離感を感じるのもあるし、客席の緊張感が昨日とは全然違っていた。
映画館でポップコーン食べながらスパイダーマン観てるぐらいの雰囲気でした😂
東京少年少女合唱隊はこの長大な交響曲の冒頭から身体をじっとさせて待機してるのだからすごい。全く動かないのでおきあがりこぼしに見えたくらいだ。
私なんか落ち着きがないしずっと同じ姿勢だと身体が強張るから、微動だにしないというわけにはいかない。
今日の第5楽章のクオリティも高かった。
第6楽章は昨日と同じくゆっくり靄がたちのぼるような気配で始まった。この楽章になっても鈴やセロファンの音はあったが、それまでと比べると多少ましにはなっていた。
しめやかな音楽がうねりながら会場を満たしていくさまはさながらレクイエムのよう。今日もすすり泣きの声が聞こえた。
そして、昨日は気づかなかった7台のシンバルが一斉に高らかに鳴らされると、その光景はまるで崇高な祈りのようだった。
ベートーヴェンの第九もそうだが、クラシックの傑作は人類愛や平和の希求を感じさせるものも多い。
マーラーの世界平和への思いを感じずにはいられなかった。
第6楽章につけられたもともとの標題は「愛が私に語ること」だ。愛も尊いが、今日の私には祈りの光景に見えた。
昨日言葉にしえなかったものは「祈り」だったのかもしれない。
Pブロックに座る東京少年少女合唱隊の子供たちを見て、この子たちが大人になるころには世界がもっと平和で、日本も住みやすい国になっていますようにと願わずにはいられなかった。
私は独身で子供もいないが、世界も日本もどんどん不幸な道へと進んでるような気がしてならない。
それが人間が宿命づけられて歩む道なのだろうか……。
今日はフライング拍手がなかった。「あれだけ演奏中に散々ノイズを出しておいてフライング拍手はしないのね」と、もしかしたら指揮者も心中で毒づいたかもしれないが、音楽を閉じたあと両腕をまっすぐ上げたまま静止したカーチュン・ウォンの姿はまるで「祈り」と題された彫像のようだった。