融通無碍の極致 井上道義/千葉県少年少女オーケストラの「運命」
東京芸術劇場コンサートホールで、「千葉県誕生150周年記念 千葉県少年少女オーケストラ第28回定期演奏会」を聴いた。
ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「天体の音楽」
J.S.バッハ<齋藤秀雄編曲>:シャコンヌ(無伴奏バイオリン・パルティータ第2番より)
ベートーベン:交響曲第5番ハ短調「運命」 Op.67
【アンコール】
ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「雷鳴と電光」
指揮:井上道義
管弦楽:千葉県少年少女オーケストラ
音楽監督:佐治薫子
私にとって初めてのジュニアオーケストラ。10歳から20歳まで、160名で活動しているようだ。
全国トップレベルと思われるこのジュニアオケを知ったのは、おそらく「題名のない音楽会」。
2019年に小曽根真を迎えてモーツァルトの「ジュノム」で共演した様子が紹介されていたのだ(聴きたかった😭。指揮は井上道義)。
土日のマチネーは平日夜のサントリーホールとは明らかに客層が違う。
カジュアルな雰囲気。オケのOGらしい人の会話も聞こえた。
さて、入場シーンから変わっている。まるで日体大の「集団行動」のような、規律的な動作で整列してステージに現れる。
「天体の音楽」。
これが聴けただけでも来た甲斐があったと思った。
10分足らずの曲だが、ここに人生や世界のすべてが詰まっていると思わせる深い音楽だった。
日本のオケがウィンナ・ワルツを演奏すると「キッチリ、カッチリ」になりすぎる例もあると思う。
井上道義の指揮だとそういうことはなく、3歩進んで2歩下がるダンスのステップのような独特なリズムがうまく体現されていた。
演奏の精度は極めて高い。今まで聴いたどのアマオケより上回るくらいだ。
東京のオケだと新日本フィルに近いカラーを感じた。
10代たちの奏でるウィンナ・ワルツを聴きながら、ウィンナ・ワルツが似合う未来になってほしいと思わずにはいられなかった。
未来ある若者たちの幸せを祈る気持ちで聴いていた。
井上道義は最後の音が会場に吸い込まれるや、振り返りざまに両手を大きく広げて「どうですー? 凄いオーケストラでしょー?」と言わんばかりのアピール。
ブロードウェイのパフォーマーかと思うようなこんな仕草が似合うのは井上道義だけ。
今年で引退する理由の一つが「ヨボヨボになってまで振りたくない」というものらしいが、まったく落ちぶれていない。
むしろ今後音楽家として深化していくのは確実なのに、もったいない話である。
しかし、相変わらず会場はざわざわ落ち着きがない。
飴の音、シャツを激しく擦る音(乾布摩擦か?)、演奏中に話す、極めつけは鼻を啜る音がかなり長時間響いていた。
アンゲロプロスの映画を見に行ったらポップコーン食べながら見てる人がいたくらいの興醒め感はある😓
演奏後、オケの中に潜んでいた音楽監督の佐治薫子さん(88歳!)と井上道義のトーク。
何せ曲数が少ないから、時間稼ぎの意味もあっただろう。
それだけ一つの曲に練習時間をかけたんだろうなと思った。
このオケを作った当時の話などを井上さんが振っていたが、この方は聞き役にはあまり向いてないかも😅
自分のペースで仕切っちゃうから、基本的には自分が話したい人なんだと思う。
続いて、バッハの「シャコンヌ」。
こちらは感動しなかった。冒頭の主題からどうも響きが軽い。
全体的にゲーム音楽っぽいテイストに感じてしまった。
バッハの「シャコンヌ」なんて聞くと、私は「ザ・精神性」を連想する。
演劇で喩えるなら大滝秀治の一人芝居みたいな「濃さ」を期待してしまうのだが、「半沢直樹」の堺雅人程度だった。これがイマドキのバッハ?🤔
無論、背伸びして仰々しいバッハを奏でるのは、小学生が貴族のローブを着ているような違和感があるだろう。
以前、カラオケバトルで小学生男子が「また逢う日まで」を歌っていて、勘弁してくれと思った。
男女の機微などまったく表現されてはおらず、声量を披露したいだけの選曲だ。
令和の若者らしいバッハだったのかもしれないが、私にはあっさりしすぎててノレず。大谷翔平に似た爽やかさはあった。
スポーツ界も昔の方が個性的だったよな、と思ってしまった。
休憩を挟んで、後半は「運命」。
こちらはオーソドックスな正攻法。ピリオド・アプローチもなし。
コントラバスが7台くらいいて、みんなしっかり弾くから重厚感が半端ない。
管楽器のソロで細かいミスはあるのだが、私はそういうのはあまり気にならない。
むしろミスを恐れず、音楽の流れに乗って果敢に飛び出そうとする勇気に心打たれた。
「One for All, All for One」という言葉を実感した。オケの一体感が素晴らしかった。
とはいえ、私は「運命」の第2楽章がどうも苦手なところがある。
CDだとそうでもないのだが、生で聴くと飽きが生じたお客がざわざわ音を立て始めるので、繊細なニュアンスがほとんど伝わってこない。
30年近くクラシックコンサートに通っているが、「息を潜めるようなピアニシモ」なんてめったに聴けなくなってしまった。
演奏家のレベルは下がっていない。聴衆のレベルが下がったのだ。
音楽家がいくら音楽に真剣に向き合っていても、雑な態度で見ていては(聴いている、とすら言えないだろう)深い感動には至れない。
今日の「運命」は第4楽章が素晴らしかった。
中間あたりからオケがゾーンに入り、指揮者とオケが一心同体、音楽が人格を持って生きもののように脈打ち始めるレベル。
なかなかそんな演奏会にはお目にかかれない。
結局、派手な楽章でお客は熱狂するが、静かだったり繊細な楽章では飽きた人が音を出しまくるので、近頃は繊細な表現に感動することが困難になってしまった。
井上道義は「運命」の最後の音の前にはっきりタメを作り、冒頭のジャジャジャジャーンのごとき重々しさで最後の音を奏でた。
そして、フラブラする間を与えず、振り返ってまた両手を広げる。これにはお客さんも沸いた。
アンコールは、30人くらい?の追加団員(新人さんたちだろうか?)がオーケストラを四角く取り囲んで、カルロス・クライバーの十八番でも知られる「雷鳴と電光」。
ところどころ、追加団員が身体を揺らしたり、足踏みしたりというフリまで付いている。
こんなに楽しい音楽はない。あのクライバーを超えた、と言っても過言ではないダイナミズムとスケールだった。
井上道義という人はカッチリした指揮で知られる齋藤秀雄のお弟子さんだが、指揮法に関してもはや融通無碍の極致に達した印象だった。
型破り、というのは、しっかり型を身につけた人にしかできない離れ業。
決してパフォーマンス的にならない自由自在でダイナミックな指揮は、余人の追随を許さない。
音楽と一体化した指揮。指揮法を極めた指揮者、と言えるかもしれない。
客電がついてアナウンスが流れたのち、会場の拍手はほぼ絶えたが、思い直して最後の団員が退場するまで拍手を続けた。