カーチュン・ウォン/日本フィルのブルックナー交響曲第9番に感じた5つの不満
サントリーホールで、日本フィル定期を聴く。
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調 WAB109
指揮:カーチュン・ウォン
カーチュン・ウォンは好きな現役指揮者の筆頭である。生で6回くらいは聴いているはずだ。
一番感動したのはCD化もされたマーラーの5番。マーラーの3番もよかった(9番は聴けなかった)。
グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールの2016年の覇者で、日本フィルでは交響曲チクルスが進行中。
マーラーとの親和性を多分に感じる指揮者だけに、同じ手法でブルックナーを料理しないだろうかという懸念があったが、残念ながらそれが当たってしまった。
今日の演奏はまったく私の好みに合わず、第1楽章の途中で帰りたくなってしまった。第1楽章でカーチュンのやりたい方向性がよくわかったし、それが第2楽章以降で急転回するわけがないので、最後まで聴いてもしんどいだけだと思ったからだ。
先日、やはりお気に入りの指揮者である高関健/シティフィルのマーラーの5番を聴いて大ハズレに感じたが、今日のコンサートは推しの音楽家なら何でも好きなわけではないということが改めてわかってよかった。
世の中には「推しのやることであれば、無条件で支持するのがファンの務め」みたいな意見もあるだろうが、私はそういうタイプのファンではない。
私が今日の演奏に感じた不満を5つ書く。
1 マーラー風の解釈
演奏開始早々、嫌な予感が当たってしまった。冒頭こそやけに重々しい腕の動きで幽玄なトレモロが聞こえてきたように感じたが、カーチュンはブルックナーが書いたフレーズにいちいち細かい表情づけをするのである。私にはくどく感じられた。
マーラーなら大歓迎なのだ。カーチュンや大植英次のようにテンポの緩急が激しい指揮の方がマーラーの感情の急変がよく伝わる。
しかし今日ブルックナーを聴いていて、この作曲家は料理でいうなら無水鍋のようなものではないか?と感じた。
塩を振るだけでもくどくなりかねない。あくまで作品本位。指揮者がこう聴かせようああ聴かせようと出しゃばるほど、音楽のスケールが矮小化してしまうのである。
だって、ブルックナーは72歳で亡くなったんですよ?
70過ぎの老人の体内世界は、耳は遠くなり、動作も緩慢になっているのが自然。
枯淡の境地である必要はないが、笠智衆に藤原竜也みたいな演技をさせているような違和感があった。それを「若々しいブルックナー」と賛美するのは無理がある。
カーチュンはいったいブルックナーの人間性のどこに共感したのだろう?
どんな人間像を描こうとしているのか、私にはさっぱりわからなかった。
2 指揮が大きい
1と似た理由だが、やたらと腕を振り回す指揮に大きな違和感。おそらく汗びっしょりだったのではないか。
マケラが都響でマーラーやショスタコーヴィチを指揮したときに、まるでテレビゲームをプレイするかのような表情や手の動きに嫌悪感を覚えたが、今日のカーチュンの指揮も私には好ましく映らなかった。
第2楽章冒頭のピッチカートを1stヴァイオリンに毎回しつこく指示したり、続くスケルツォ主題でのダンスのような身振りも大袈裟としか言いようがない。
マケラもそうだったが、カーチュンにとってのブルックナーは単に「音響のパノラマ」なのではないか。
フルオーケストラを存分に鳴らして迫力を引き出そうとしているのかもしれないが、ブルックナーの内的世界を伴わないので私にはこけおどしにしか感じなかった。
マーラーならそうした指揮で全然いいのである。
ブルックナーは椅子に座った老巨匠が手首の先だけでも指揮できる音楽。
激しい動きをすればするほど、ブルックナー本来の音楽との乖離が際立って見えた。
3 楽器が溶け合わさっていない
今回は対向配置で、コントラバスが10 台もステージ奥に一列に並んでいた。
そこまでしてるわりにその効果は感じられず、アンサンブルは陶然と溶け合わさるどころか、弦と管が全然溶けて聴こえなかった(いつもはステージ周りの席だが、今回は正面)。
響きやフレージングが雑然としていて、ハーモニーが美しいと感じる瞬間はほぼなかったと思う。
4 ゲネラルパウゼの処理に疑問
ブルックナーの交響曲ってゲネラルパウゼの頻出が大きな特徴で、ゲネラルパウゼの静寂がアクセントになって次のフレーズに移行するようなところがある。
今日のカーチュンは、第1楽章ではそのゲネラルパウゼが句点でなく読点のような処理だった。つまり、次のフレーズに移行するまでが早いので忙しない印象なのだ。
その反面、展開部から再現部に至る場面ではこれ見よがしに長い間を設けたり(第1楽章と第3楽章の2回ともだったか)、第3楽章の後半でも大きな身振りでフレーズを閉じたあとそのまましばらく静止していたりと、私には感覚的にゲネラルパウゼの処理をしているように見えた(不自然なゲネラルパウゼが多く、音楽の妨げに感じた)。
フィナーレはフライングブラボーがなかったが、瞑想的な演奏ではなくむしろ感情的でドラマティックなブルックナーだったのに、取ってつけたような意味深な静寂を指揮者が長い時間演出したせいで白々しく感じてしまった。
5 音楽の呼吸が浅い(特に金管)
ブルックナーの交響曲で大活躍する金管のフレージングが深々としていなかった。
やはりカーチュンの指揮が忙しないせいなのだろう、すぐに次のフレーズへと移行していくので、舞台役者が深い息で朗々と発声するような表現にはならない。
金管奏者のせいではなく、指揮者の音楽づくりのために、音楽全体の底が浅くなっていたように思う。
以上、いろいろ好き勝手に書いてきたが、私はスコアを見て聴いてないので音楽の理解が浅いのは自認している。
ただ、宇野チルドレンゆえか、演奏のよしあしとその理由を明確に書くことだけは毎回自分に課しているつもりである。
読んだ人に共感はしてもらえなくても納得はしてもらえる感想を書きたいと思っている(「自分は今日の演奏よかったと思ったけど、なるほどそういう理由で嫌だったのね〜」という納得)。
ブラヴォーは飛ばなかったが、拍手は通常の大きさだった。
私はてっきり第1楽章が終わって退席する人もいるのではないかと思っていた(見える範囲ではいなかった)。
それくらい、日本で従来好ましいとされてきたブルックナー演奏とは対極だった。
朝比奈もヴァントもスクロヴァチェフスキも楽譜そのものに語らせるブルックナーだったし、そんな老大家でなくても、ノットもミンコフスキもバーメルトも小泉和裕も下野竜也もこんなに細かく表情づけはしていなかった。
言わば異色のブルックナーなのに、お客の反応はいつもと変わらない。
良い悪いは個人の主観だとしても、従来とは正反対の演奏には違いないと思う。
しかしどんな演奏スタイルでも変化のない客席を見てると、どんな不正をしても自民党が圧勝する日本を見ているようで……😅