新国立劇場の「魔笛」が二期会公演(宮本亜門演出)に劣るわけ
すいません、炎上狙いのタイトルつけちゃって笑
ちゃんと理由述べますので笑
新国立劇場の「魔笛」を観てきました。
二期会の「魔笛」は2021年9月11日に観ました。
「日本一のバス」と言っても過言ではない妻屋秀和さんがザラストロの回です。
今回観て痛感したのは演出力の圧倒的な差でしたね。
私は亜門さんに軍配です。
宮本亜門さんはミュージカル、オペラ、ストレートプレイ、いろいろ手がけてますが、彼の演出を観るのは初めてでした。
亜門さんの演出は続いて上演された二期会「フィガロの結婚」の再演でも観たんですが(しんどかったので休憩中に帰りました)、「魔笛」の方が圧倒的によかったです。
宮本亜門版の「魔笛」のリンクを貼っておきます。
簡単に演出を説明すると、タミーノはリストラされたサラリーマンです。
序曲が始まると、スーツ姿のサラリーマンが帰宅します。3人の子供たちが飛び回って遊んでる中、サラリーマンは奥さんに解雇通知書を見せます。
やけ酒を飲んできた様子で、家族に当たり散らします。
やがて子供たちが遊ぶRPGゲームのテレビ画面にサラリーマンが倒れ込んだら画面が割れて、中の世界に行ってしまう。
いわゆる「転生もの」ってやつなんですかね笑
サラリーマン・タミーノはあちらの世界で数々の試練に遭います。
ザラストロは脳味噌が肥大化したチンパンジーです。
胡散臭い教養主義を亜門さんが皮肉ったのですが、ヨーロッパの歌劇場ではザラストロ役の歌手が脳味噌のコスチュームをかぶるのを拒否したそうです笑
ザラストロである自分をかっこいい存在として見せたかったのでしょう。
でも、ザラストロって新興宗教の教祖そのものって感じしますけど。
夜の女王は巨大化した乳房をしています。母性の象徴なのかもしれません。
一番よかったのは3人の童子たちです。実際の少年を使っていて正直声のバラバラ感はありました。
でもそれが案外よかったのです。バラバラだから3人の個性が際立つし、童子はサラリーマンの息子がそのまま演じてました。
日本のサラリーマンの息子だからウィーン少年合唱団みたいにならなくていいのです笑
2021年9月といえば、またまだコロナが激しいころ。
この公演も無事上演されるか不安がありました。
クラシックの中でも声楽は飛沫が飛ぶので一番リスクを伴います。
ピリピリしていたに違いない二期会のキャストやスタッフに混じって仕事をしてるこの3人の少年(小学生?)はどんな気持ちで毎日を送ってるのだろう?
コロナ禍なんて想像もしてなかったでしょう。この少年たちの日常のドキュメンタリーを見てみたいと思いました。
彼らに涙腺をとても刺激されました。
序曲のときに家族の風景が描かれるのですが、モーツァルトの旋律と身体を引っ張り合う動きが絶妙にマッチしてておかしかったです。
序曲はセリフがないので全員パントマイムみたいに演じますが、身振りが大きくてサイレント映画のようです。
これがラストに活きるんですね。
ラストシーンはザラストロ教団の合唱が終わったあとの1分くらいで、舞台が転生先からサラリーマンの自宅に戻ります。
長旅を終えたサラリーマンは家族との再会を喜び合うのですが、それは「普段は当たり前だと思っていた幸せに感謝する」姿そのものでした。
転生世界でタミーノを導いていた童子たちも息子の姿に戻って、お父さんとの再会を飛び上がって喜びます。
ここのラストでボロボロ泣きました。
大袈裟な言い方かもしれませんが、この亜門さんの演出は「私たちが普段当たり前に感じていることは当たり前ではない。何かイレギュラーな困難を経験し克服したときに初めて、今まで周りにいた人たちの存在の大きさや有難さを知る」ということではないでしょうか。
それは東日本大震災にも当てはまるし、ロシアのウクライナ侵攻にも当てはまります。
優れた芸術は時代や国籍を問わない普遍性があるのです。
話が長くなりましたが、今日のウィリアム・ケントリッジの演出にはほとんど魅力を感じられませんでした(歌手はよい方が揃ってました)。
以下、違和感を列記しますね。
衣装が一番違和感ありました。
どこの国の何時代??
衣装に統一性がないんです。
「魔笛」における合唱団ってザラストロの教団の人たちですよね?
今回は2種類の軍団がいるのかと思いました。
男性主体のザラストロ軍団。
もう一つの軍団は、カラフルな大正時代の日本人のようなおしゃれな格好をしてました。
「モガ(モダンガール)」「モボ(モダンボーイ)」ってやつ?
大正時代のパリコレか??
と思いましたね。
あのモガ・モボ軍団もザラストロの教団員なんですよね?
なんで2種類に分けたのかわかりません。
舞台美術も、映写機で物語内物語の入れ子構造にしてるようで徹底されておらず、中途半端(入れ子にするなら、蜷川幸雄の「NINAGAWAマクベス」が仏壇の扉を閉めて終わるようにラストも映写機で終えるべきでしょう)。
頻出する星座や占星術を思わせる幾何学模様も作品とのつながりがわかりません。
音楽はよかったですよ!
オレグ・カエターニ指揮の東京フィル。
すごく自然体で、余計なことを一切考えずに物語に浸れました。
カエターニはネルロ・サンティと似て見えましたが、オペラ経験が豊富なのかもしれません。
さて、それぞれの歌手について触れます。
あ、その前に。
このプロダクションのありえないところがあった!
なんと弁者と僧侶Ⅰが同じ人なんです!笑
ありえないでしょう。
「魔笛」の弁者って、オペラの主要キャラなのに歌わないという珍しい役なのですが、「どうせ歌わないんだから僧侶の人が二役やってもいいよね?」って発想がまったくダメです。
これ、ケントリッジの初演からそうなんですかね(再演は澤田康子さんなので)。
「ハムレット」で言ったら、最後にちょっとだけ出てくるフォーティンブラスのためにわざわざ役者用意するの面倒だから、レアティーズの役者に二役演じさせるようなものです。
ありえますか???
弁者という役柄を軽視するにも程があります。
二期会だとベテランの久保和範さんを当ててました(別日は今日のザラストロ役の河野鉄平さん)。
亜門さんはザラストロやれるレベルの歌手を歌わない弁者に使ってるんですよ!笑
こういう人件費節約みたいなのは読み替え演出でも何でもなく、作品世界を安っぽくしかしません。
弁者と僧侶を同じ人が演じた方がいいと言う方がいるならご意見を伺いたいです。
歌手で特によかったのは、
パミーナの砂川涼子さん。
パパゲーノの近藤圭さん。
三人の侍女。増田のり子さん。小泉詠子さん。山下牧子さん(順番に)
です。
砂川さんはほんとに可愛かったですね。
舞台映えするチャーミングな美貌ですし、声の表現力も素晴らしい。
むかしコジェナーやフォン・オッターやエルトマンといったソプラノのリサイタルに行ってる時期がありましたが、砂川さんは一度リサイタルでも聴いてみたい!
近藤さんは二期会公演でもパパゲーノを演じてました。
私が観た回はコメディー演技に定評のある萩原潤さんで、長身イケメン近藤さんのパパゲーノには不安もあったのですが、二枚目なのに三枚目も演じられるという芸の広さ!
イケメンが三枚目やっても大体鼻につくだけなんですが(福山雅治のコメディーを想像してみてください)、近藤さんはジム・キャリーみたいな感じです。
真面目もできるし、ユーモラスな芝居もできる。
長身だから砂川さんと並ぶと美男美女の完成!
この二人が付き合えばよいのでは?
と思いましたね(だってタミーノの鈴木准さん、髪型が宮本文昭さんみたいなもので。
砂川さんと宮本文昭さんのラブシーンを見てる感じでしたね…)
三人の侍女の合唱もゴージャス感ありました。
山下牧子さんってバッハ・コレギウム・ジャパンのソリストされたこともありましたよね。
贅沢な起用です。
でも、亜門さん版の方が演出はよかったかな。
亜門さん版の侍女は演技に「職場の同僚感」がありました。
侍女同士ってまさにそうですからね笑
亜門さんはストレートプレイもされるから、演技指導がそちら寄りでもあるんでしょう。
私はミュージカルやオペラよりストレートプレイの方が好きなので、演出家が細かい演技をつけていたり歌手が役柄を深く理解した動きをする方が好みですね。
3人と言えば、今回の童子はみんな成人女性だったのもがっかりです。
登場したときは黒板で下半身が隠れていて、歌がべらぼーにうまかったので、「なんだこのウィーン少年合唱団みたいな3人は!」とびっくりしました。
歌がいくらうまくても少年の役を大人に演じさせる必然性を何ら説明してなかったし(責任感あるかわからない子供と労働契約したくなかったのか?)、黒板で下半身隠し通すのかと思いきや最後に黒板どこか行ってしまうので、舞台には3人の成人女性だけが残ります。
モーツァルトの「魔笛」にはそんな役はないはずですが、、
ここで見る人の好みが分かれますね。
CDみたいに音楽優先で聴きたい人はバラバラの少年合唱よりレベルの高いソプラノで聴きたいでしょう。
反対に私みたいな演劇的要素優先の人は「この3人のお姉さん、誰やねん」てなるわけです。
初めて聴くオペラではないのだからある程度は頭の中で補正できます。
私がオペラ苦手なのは「音楽なのか? 演劇なのか?」と思うからです。
ストレートプレイの俳優並みの演技力がないオペラ歌手によるお芝居。
歌ってるから観れるのであって、もし台詞だけの芝居をさせたら観るに耐えないかもしれない。
なんか中途半端な感じがするのです。
私は演劇好きなので、演劇的におかしく感じると白けてしまうんです。
弁者の節約、童子がソプラノ。大人のご都合主義にしか感じません。
夜の女王、ザラストロ、モノスタトスはいまいちだったかな。
夜の女王は二期会公演と同じ安井陽子さんでした。
そのときも声出せない感じで、おそらく今後この役は難しいのではと感じる出来でした。
今回も第1幕のアリアのメリスマのところで極端にオーケストラのテンポが下がってしまい、それでも歌いづらそうでした。
第2楽章は第1楽章よりは遥かに安定して歌ってました。
アリア後の拍手も一番長かったですが、私にはいまいち。
棒立ちで歌うのでいっぱいいっぱいな雰囲気があるし、YouTubeで見るダムラウなどとは違って(比べるなと言われそうですが)、見ていて不安になってしまう。
安井さんうまく歌えるかな?って気持ちになってしまうので、芝居から気持ちが離れてしまうんです。
例えるなら、フィギュアスケートの伊藤みどりが現役引退の5年後に1回だけスケートリンクに戻るイベントがあって、往年のファンがドキドキする中、無事にトリプルアクセル成功!みたいな感じの拍手に感じましたね。
第1幕の女王の登場シーンは、階段状になってる舞台奥の幕が上がって現れるので、目にした瞬間、美川憲一の歌謡ショーか?と思ってしまいました(山村紅葉にも見えましたが…)。
第2幕のパミーナに向かって歌うアリアは2人だけの空間。
そんな設定でしたっけ?
亜門版は侍女も舞台上にいたような気が。
娘一人しかいないのに随分ハイテンションな母親だなと思っちゃいましたね。
ラストでザラストロの屋敷に忍び込もうとするときの女王は侍女たちと似たようなクリーム色の衣装。同じ階級でいいんですか?
ザラストロはスーツ姿で、「青天を衝け」で忍成修吾さんが演じた岩崎弥之助に見えます。
亜門版の妻屋さんが演じる脳味噌肥大化チンパンジーのような貫禄はまったくなく、怪しげなセミナー講師といった印象。
声がよかったところで演出がこれでは歌手が頑張っても貫禄は出せません。
升島唯博さんのモノスタトスは燕脂色のベルボーイみたいな制服を着てました。阪急グループか?
こちらは白髪だったのもあり、相撲行司の木村晃之助に見えました。
亜門版の高橋淳さんの方が役のイメージに合ってましたね。
パパゲーナの三宅理恵さんはおばあさんのときの演技の方がコミカルでよかったかな。
こちらもダイソーで売ってるパソコンのほこりを静電気で払う箒のような衣装に違和感がありました。
老女から娘の姿に変身するときも、顔を隠してた大きな布をめくってこんにちはするだけ。
いないいないばあですか?
歌手は概ねいいのです!
演出や衣装に問題があります。
中央に設置されていた右から左へ流れていく「動く歩道」も、私には「細かすぎて伝わらないモノマネ」にしか見えませんでした。
こうしたもろもろを比較すると、宮本亜門版の「魔笛」の方が演劇的に大きく優っているのは言うまでもありません。
今日の舞台を観て「砂川さんと近藤さんが主役のオペラを観たい!」と思いましたが、「ソプラノとバリトンはヴェルディのオペラでは父と娘の関係でよく用いられます」という話も聞きました。
私はオペラに疎いのでわかりませんが、お似合いのお二人でしたので、どこかでデュエットを聴ける機会があると嬉しいです。
今日の「魔笛」を見ながら亜門さんの演出を思い出して、重ね合わせて観ていました。
ラストのサラリーマン・タミーノが自宅に戻って家族との再会を喜び合うシーン。
ケントリッジの演出は特別な読み替えがないので(かと言ってオーソドックスですよと薦めたくはない)、試練を終えたタミーノとパミーナが結ばれてザラストロ軍団に祝福されて終わりです。
終曲のラスト1分でバタバタと繰り広げられる亜門版の家族との再会劇は、先に書いた通り「日頃当たり前に感じて忘れていること」に目を向けさせるものでした。
私はその演出に、モーツァルトの描いた世界をより深化させた風景を見た思いでした。
だから、今でもその部分を聴くたびにいろいろ思い出して涙が出そうになるんです。
当時私は新人賞に応募する小説を書いてたのでそのことだったり、改修工事中の国立西洋美術館の姿だったり(亜門版の会場は東京文化会館でした)。
そして何より目に焼き付いているのは童子役だった3人の少年たちです。
歌のアンサンブルの精度だけで言えばいまひとつでしたが、それも味です。
ラストシーンで3人が飛び上がって父親との再会を喜ぶ姿は、人によってはオーバーな演技に感じたかもしれませんが、私には幸せそのものが跳ねまわっているように見えました。
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