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なぜ、「連れ去る」のか

見事、一つのプロジェクトがゴールに達成した。

公開初日、日付こそ超えたが、半日ちょっとでの達成は素晴らしかった。

まだまだ支援者候補の余力を感じる。それだけ、広く全国に及ぶ問題なのだ。

プロジェクトリーダーが練りに練ったメッセージが心に刺さる。

単純に、単独親権制から共同親権制へという話にとどまらない。

家族のありかた、男女の平等、親子であることについて、誰もが共感しやすい穏やかな言葉で紡いでいく。もちろん、DV被害者の気持ちに配慮することも忘れていない。

ゴール達成を果たした今こそ始まる。

クラファンにゴールすること、訴訟を提起すること、判決をもらうこと、それらは通過点にすぎない。

目指すは、#民法改正 である。

ゴール達成のお祝いに、なぜ連れ去るのかについて言及したい。

離婚訴訟を提起し、審理している間に数年が経過することもあり、結局、離婚判決に落着することも多く、破綻主義に傾倒していると評価される。

しかし、民法の規定によれば、あくまで、有責主義を主軸にしており、破綻主義を明確にしていない。

「1年別居をすれば必ず離婚する」という制度があれば、別居しながら1年経過することを待てばよい。その間に、子どもの養育環境について整えることに専念するだけでも、時間は経過する。そこに、夫婦が誹謗中傷しあう必要がない。離婚していくことを覚悟しながら、それでも父母として子どもの為にどのような責任を果たしていくかという視点に切り替えやすいのである。

しかし、現行制度には、そうした、破綻主義が存在しない。

離婚に至るほど非難できる事情を裁判官が離婚判決を書く場合には求めてくる。それゆえ、可能な限り、不満だった事実を列挙し、不愉快だった思い出を並び立てる。これは、離婚しようと決意した上で取り組むのだから、過酷な試練だ。もう夫婦を卒業したいなという程度の離婚意思をどんどん強化させ、決定的に嫌いになっていく作用を促進するだろう。

一方で、共同養育が大切だと言われたところで、父母が協力して愛情を注げる環境をどうやって実現できようか。そもそも無理ゲーである。

なぜ、無理ゲーかというと、婚姻の有無と親権のあり方を紐づけ、婚姻中は共同親権、婚姻外になれば単独親権という区別をしているからである。

これが共同養育を決定的に困難にさせていく。

諸外国が共同親権制を採用しているからといって、事情によって、単独親権を選択している場合もある。それでも、日本の実情に比べれば、十分に潤沢な面会交流が実現することもある。それは何故か。

夫婦の問題である婚姻・離婚と、親子の問題に関する親権制を完全に切り離しているからである。

結果として離婚後単独親権となるケースがあったとしても、日本におけるそれとは異質なのである。

婚姻と親権が連動してしまう固定的な制度のために何が起こるか。

離婚をしたい。しかし、相手配偶者が不貞をしたわけではない。不貞は、離婚事由として法定されているから、不貞の事実を主張立証できれば、離婚請求が認容される。一方で、不貞を行った配偶者からの離婚請求は有責配偶者による離婚請求のため権利濫用として棄却される場合がある。そうすると、不貞をされた側は、離婚しようと思えばできるし、しないという選択もできる、その一方で、離婚請求をされても拒めるという具合に、婚姻の継続の有無についてイニシアティブを持てる有利な立場といいうるのだ。

不貞されて裏切られて、子連れで路頭に迷うかもしれないという固定観念ほど悲劇ではない。ひとまず、離婚しないで生活を立て直し、条件を整えていく段取りという選択肢があることが、自分らしく生きる上での余裕となるだろう。

さて、なぜ、連れ去るか。

不貞のような明確な有責事由がないが、性格の不一致(もっといえば、性の不一致が大半なのではないかとも思う。しかし、訴訟において、そこは露骨には扱われない。公開して審理する性質のものではないからだろう。)で離婚を考えたとき、裁判官の目では、離婚請求が認容されないかもしれないと考えられる。

何としても離婚したいのに、離婚できない、となれば、まず、別居を強行し、その上で、非難を尽くし、夫婦関係の「破綻」を立証するために尽力せざるを得ないことになる。

理屈で言えば、同居中でも、不貞配偶者に対しては離婚請求が認容されうる。
だが、不貞のような離婚事由がない状況で、同居をしながら離婚請求をしても、棄却される可能性が大きいため、別居を強行するしかない。別居期間を伸長していくことが、戦略上必要である。

その上で、単独親権制がゆえ、子を監護しておかなければ、親権を失いかねない制度である以上、別居に際しては、子を連れていくというのも自然ということになる。親権を失っても「親子であることには変わりがない」「潤沢に会える」保障があるのであれば、単身家を出るということもあり得るかもしれないが、親権を失ったあとの仕打ちについては、よく知るからこそ、自身の親権を確保することがやはり、戦略上必要になる。それが、親子らしさを守る最低限の手段だからである。

これが、共同親権であり、また、親子らしさを失わない保障が徹底されていれば、そもそも連れ去る必要がなくなる(それでも、子を連れて出なければいけない状況というのは、まさに、避難の必要性が肯定されていくのだろう)。

連れ去りの禁止を、と語られる。

連れ去りではなく、拉致・誘拐、と呼ぶべきだ、とも語られる。

連れ去りに対しては、厳格な刑事罰をもって対処すべきともいう。

そのようにしている国があるからだが、それは、連れ去る必要がないのに連れ去っている場合を厳格に処罰しようとする仕組みであることが前提である。

破綻主義が完成しておらず、かつ、単独親権制の日本においては、連れ去らざるを得ない、それが戦略上肯定されうるという仕組みが放置されているのであり、その仕組みのまま、ただ、刑事責任的アプローチで禁止するということは、より不合理な結果を引き起こしかねないということだ。

そういう禁止規範よりも、行為規範として、連れ去るメリットも、連れ去らなかったデメリットもない仕組み、共同親権を導入することで、親子の親子らしさが守られれば、ある程度は、連れ去りという悲劇は抑止することを期待できるのである。

そのようにして、一定程度抑止した上で、それでも不当に発生した連れ去りに対しては、厳格に規制し、他方で、適正な審査を経て正当性が認められる「避難」については、規制を免除していく。そういう運用が想定できるのである。

それゆえ、早急な民法改正が求められるわけだが、現状においても、極力、連れ去り抑止策を敷くことも可能であると考える。

それは、共同養育の合意がない限り、離婚が実現しないという運用を普及させることである。日本特有の調停制度が適切に機能するならば、それはきっと実現可能に思う。

とはいえ、なかなか一筋縄にはいかないだろう。

共同親権宣言に頼らざるを得ない。

そのためのプロジェクトだ。

親子が親子らしい笑顔があふれる未来を切り拓く冒険が始まる。

ゴール達成のお祝いに寄せて。

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