ちあきなおみ~歌姫伝説~16 郷鍈治の途・後篇
一九五八(昭和三三)年十月二九日公開の「俺らは流しの人気者」(野口博志監督)で、郷鍈治(以下・鍈治)は兄の宍戸錠(以下・錠)の推薦を受け、「街の流しⅮ」という役どころで出演(宍戸鍈治名義)した。
しかし、鍈治はこれ一回で、とてもじゃないが自分には向いていないと、もう映画出演には嫌気が差していた。だが、運命は再び鍈治を映画界へと誘う。大学卒業を間近に控えた頃、またしても錠から声が掛かったのだ。
「今度はボクシングをしていればいいんだ」
映画は「打倒(ノックダウン)」(松尾昭典監督)で、主演の赤木圭一郎と試合をするボクサー役(宍戸鍈治名義)だった。
鍈治は赤木と聞いて、あのとき、映画なんかつまらねえと一緒に飲んだアイツが、今や石原裕次郎、小林旭に次いで、"日活第三の男"とし
て時代のヒーローへと駆け上がってゆく姿に強烈なライバル心を掻き立てられ、思わず出演を承諾した。
撮影は後楽園ジムナジアム(現・後楽園ホール)で三日間かけて強行され、ふたりはぶっとおしで殴り合った。鍈治は立っていられないほどフラフラになりながらも、必死に堪え、最後まで演じ遂げる赤木圭一郎の映画に懸ける闘魂に敬服した。
「打倒(ノックダウン)」は一九六〇(昭和三五)年三月二十日に公開され大ヒットを記録する。鍈治は、俳優が情熱をもって映画に生きがいを見出す意味を理解できたように思った。この映画出演がきっかけとなり、鍈治は日活に入社し、「郷鍈治」として、同年九月三日公開の「狂熱の季節」(蔵原惟繕監督)でデビューを飾り、映画俳優となるのである。
「郷」という芸名の由来は、"殺し屋ジョー"として人気沸騰中であった兄の宍戸錠にあやかって、宍戸の四、次は五だということで付けられたということである。
この頃日活はアクション映画全盛にあり、SP(ショートプログラムピクチャー)を含めて月に八本の映画を製作していた。俳優陣も石原裕次郎に次ぎ小林旭が登場、その後を追うように赤木圭一郎が台頭してきた。そこに和田浩治、宍戸錠が加わり"日活ダイヤモンドライン"と称され、女優陣も浅丘ルリ子、芦川よしみ、笹森礼子、吉永小百合と次々とスターを生み、日活ブームを巻き起こしていた。
そんな最中、一九六一(昭和三六)年、赤木圭一郎が撮影所でゴーカートを試乗中、誤って壁に激突し、二一歳という若さで死去する。
赤木圭一郎が生きていれば、その後、日本映画界の流れが大きく変わっていたであろう、とする論は少なくない。
「日活に入ったのは、赤木圭一郎がいたからだった。俺はアイツに立ち並ぶ若い俳優を見たことがない」
鍈治はデビュー以来、「海の情事に賭けろ」(野口博志監督)、「幌馬車は行く」(野口博志監督)、「拳銃無頼帖 明日なき男」(野口博志監督)で共演し、いつしか親友となっていた赤木圭一郎の突然の死に、自分の身体の一部がなくなってしまったような悲しみを覚えたが、アイツのぶんまで頑張ろうと誓った。
私感ではあるが、赤木圭一郎の死というものがなければ、赤木圭一郎―郷鍈治ラインが確立され、「渡り鳥シリーズ」などに見られる、小林旭―宍戸錠のライバル関係に匹敵するシリーズ映画が生まれていたのではなかろうか。
赤木圭一郎亡き後の郷鍈治の途を辿ってみれば、石原裕次郎「夜霧のブルース」(野村孝監督)、「夜霧よ今夜も有難う」(江崎実生監督)、小林旭「渡り鳥シリーズ」(斎藤武市監督)、「高原児」(斎藤武市監督)、「黒い傷あとのブルース」(野村孝監督)、宍戸錠「早射ち野郎」(野村孝監督)、「野獣の青春」(鈴木清順監督)、渡哲也「東京流れ者」(鈴木清順監督)、「骨まで愛して」(斎藤武市監督)、「無頼シリーズ」(江崎実生・小澤啓一監督)などの映画でその存在感をスクリーンに刻み込み、映画しか娯楽がなかったこの時代に、燦爛たるスター俳優のひとりとして身体を駆使し、いかにも日活アクション的な香りを惜しみなく放散させてゆく。
「都会から離れた調布の撮影所で、一大ムーブメントを創り出しているなんてなんとも不思議な気がした。特に俺たち若い俳優陣は、甲子園に出場しても絶対に優勝できない高校球児の集まり、という感じのヤンチャ集団だった」と、当時を回想していた郷鍈治の低い声が今もよみがえってくる。
日活アクション映画は、演劇論や演技論などには目もくれず、そんな等身大の若者たちが身体を張り、危険なアクションに命を懸けて挑んだからこそ創り得た、映画全盛時代の金字塔と言えよう。
その後六〇年代後半から七〇年代にかけて、映画産業の斜陽化が進行してゆく時間の中で、日活も転換期を迎える。そんな時代の変わり目に登場したのが「日活ニューアクション」である。
長谷部安春、沢田幸弘、藤田敏八、小沢啓一などの新進気鋭の監督が台頭し、渡哲也、藤竜也、原田芳雄などの凄まじい個性がスクリーンを席捲する。
郷鍈治もまたその中で、「斬り込み」(澤田幸弘監督)、「野良猫ロックシリーズ」(長谷部安春・藤田敏八監督)、「関東破門状」(小沢啓一監督)などの映画で日活アクション黄金期の残り火を燃え上がらせ、映画に趣を与え、見届け人のような役割で映画全体を支えてゆく。
やがて一九七一(昭和四六)年、「八月の濡れた砂」(藤田敏八監督)を最後に、日活が成人映画に路線を変更するに伴い、俳優仲間とともにフリーとなり東映へ進出。その中でも郷鍈治は、その、シカゴ・バラードが聞こえてくるかのような、ローリング・トウェンティーズ(狂騒の二〇年代)に佇むギャングさながらの、ニヒルで野性味ある風貌と肉体で存在感を示す。
そして、主に悪役スターとして、高倉健「現代任侠史」(石井輝男監督)、「新幹線大爆破」(佐藤純彌監督)、菅原文太「新仁義なき戦いシリーズ」(深作欣二監督)、千葉真一「地獄拳シリーズ」(石井輝男監督)などと競演する。同時にテレビにも進出し、「この人が出てくれば、ただ立っているだけでその姿が雄弁な台詞となる」という強烈なる独特の個性で、現代劇、時代劇、戦隊ものなど、ドラマ全体を締める俳優として株を上げてゆくのである。
郷鍈治が歩いた途を辿り直してみれば、その起伏から、常に主役を支えつづける重要な役どころを担う行程が見て取れる。このような役割を経てゆく過程において、俳優としての評価は高まり、特に一九七四(昭和四九)年のNHK大河ドラマ、「勝海舟」で演じた近藤勇役は絶賛を博す。
そして、このことをだれよりも喜んだのは、兄である宍戸錠だった。
「郷鍈治はやっと一人前の俳優になった。これでもう大丈夫だ」
常に宍戸錠の弟として比較対照されながらも、自分なりの俳優としての使命を見つけ出そうと、四苦八苦した挙句の果てにこぎつけた成果だった。
しかしここで、郷鍈治は決心していた。
「このあたりで終わりにする」
それは、幼い頃からその背中を追い、なにをやっても敵わなかった兄貴に対する、はじめての反逆でもあった。
郷鍈治は自分への俳優としての評価、そんなことより、ひとりの男としての人生に激変をもたらす夢を秘め、これまで歩いてきた途さえも忘却の彼方とさせる、ひとりの女の存在に強く眼差しを注いでいた。
その存在こそ、稀代の歌手、ちあきなおみだったのである。
つづく