雑記㉒:『好きな絵本と音楽と僕の葛藤』の話をつらつらと
長新太さんの『そよそよとかぜがふいている』という絵本が好きだ。
手の大きな猫が、様々なものをおにぎりにしていき、お弁当にしてしまうという、ナンセンスワールド全開の絵本。この絵本が何を暗喩しているかを考察しながら読むと、文学的にも、そして保育的にも面白い。
大人が大きな手を使い、様々な個を持っているはずのものを、同じ形の三角おにぎりに変えて、社会や学校といった集団というお弁当箱に詰めてく。
大きな手=大人(先生)
おにぎり=子ども
弁当=社会(学校・集団)
この構図が見事に当てはまる内容は、学校教育への痛快な風刺のように感じる。
話は少し変わって、好きな音楽の話。
HIP-HOPではCreepy Nutsさんの曲を良く聴いている。オードリーのオールナイトニッポンから、『よふかしのうた』で、知ったミーハーな僕だ。
最近の楽曲の中では『かつて天才だった俺たちへ』という曲が好きで、曲調の格好良さに加えて、歌詞を聴くと考えさせられる部分が多くある。
『かつて天才だった俺たちへ
神童だったあなたへ
似たような形に整えられて
見る影もない』
歌詞の一部分だ。
かつて天才だった人たちを、似たような形に整えたのは誰だろう。
社会の常識や周りの目、そうしたものへのメッセージを感じる。
さて、僕の好きな絵本と歌。
どちらの言葉も耳が痛い。
好きなものから受け取るものが故に、そして、絵本とHIP-HOPという一見交わりのなさそうな2つのコンテツにも関わらず、根底のある場所が同じなような気がするが故に。
果たして僕は、天才をおにぎりに整える側の人間なのか。
日々、20人以上の子どもたちと生活していると、自分の志す保育の形が揺らぐことがある。
具体的に何かと言われれば、一言では言い切れないのが、保育の難しさであり、また面白さなのだが、例えば、「個を大切にする」ということもその一つだと思う。
集団あっての個ではなく、個があっての集団だと常々思っている。しかし、それでも、自分が集団の動きに注視しなければならない時がある。
集団の場は社会性を身につけ場であるとも思う。
物の譲り合いや、考え方に折り合いをつけるなど、社会生活を送るのであれば、そうした能力や経験は必要だ。たぶん。
そんなものは必要ないという人もいるかも知れないが、それが必要ないで済む人はほんの一握りで、凡人からすれば、その枠にとらわれずに生きていける人間は天才だ。
そして、大方大半の、それをしなければ社会で生活を送れない人間がする保育は、最後の最後に集団を子どもに強いてしまうような気もするのだ。
「個を大切にすることが大事です」は、正しいことだと思う。しかし保育現場やその先の社会はそんな単純ではないし、全体主義か個人主義か、両極端の白か黒ではないという現実を手放しにして語れることではないのだ。
ちなみに、僕の好きな2つの作品が地に足がついていないという話ではない。
例えば、絵本では、大きな手がおにぎりにしていく最中に、「そよそよと風が吹く」という一文があり、楽曲の最後には「風任せ」というフレーズが余韻を惹く。
様々な正論に苦しくなりそうな時、一呼吸の余白をくれる、優しい言葉に力をもらえる。
個と全体。2つの間を行ったり来たりしながら、揺らいで揺らいで揺らぎ続け、グレーな世界を漂う頬に、異なるコンテンツから吹く、そよそよとした風を感じながら葛藤する保育士の話。