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非現実的ないわゆる「旧宮家の皇籍復帰」

「編集部セレクション」に選出した編集部の認識が疑われる記事

 プレジデントオンライン編集部が配信した人気記事の中で、「編集部セレクション」と題した記事を紹介しています。その記事のうちの一つが八幡和郎さんの「『愛子天皇』は選択肢に入っていない…『旧宮家男子を養子に』という政府の皇族確保策が妙案である理由【2024編集部セレクション】」です。

 安定的な皇位継承に向けて、政治的な議論が山場を迎えつつある。評論家の八幡和郎さんは「政府の有識者会議が出した皇族数を確保するための2案はいずれもメリットがある。佳子さまと愛子さまのご結婚までに結論を出す必要があり、各党はいち早くコンセンサスを形成すべきだ」という――。

公務の担い手不足が皇室の課題に

 長年の課題だった皇族数の増員を図る方策がようやくまとまる目処がついてきた。皇室では秋篠宮殿下のあと9人連続して女子の誕生が続き、悠仁さま以外に次世代の皇位継承権者がおられない。また、皇族の高齢化や雅子さまの体調不良もあって、公務の担い手が不足している。

プレジデントオンライン「『愛子天皇』は選択肢に入っていない…『旧宮家男子を養子に』という政府の皇族確保策が妙案である理由【2024編集部セレクション】」

 この八幡和郎さんの主張には大きな欠陥があります。一つは、皇族を離れて国民となっている旧11宮家を男系男子で継承する末裔を特別扱いして皇族とすることは憲法違反の疑いがあることと、ただでさえ不自由でプライバシーなどない生活の中で国民のために祈ってくださっている天皇をはじめとした皇族のことを何も考えていないこと、そして、現在の皇位継承において喫緊の課題である安定的な皇位継承に何の助けにもならないことです。
 そして、八幡和郎さんが「佳子さまと愛子さまのご結婚までに結論を出す必要が」あるなどと述べているのはまったく失当で、秋篠宮家の姉妹の運命がタイミングによって大きく変わってしまうことを懸念する私としては、小室眞子さんのご結婚までに皇室典範の改正がなされていなければならず、現時点においては完全に手遅れというのが私の認識です。したがって、皇室典範に皇族から離れることができる条項が制定されている以上、皇族から離れることを願っているとしばしば報道される佳子内親王殿下がお気持ちを変えて皇族に残るという選択肢の可能性は小さいと思いますし、そのようなお気持であるのなら皇族から離れることをお止めすべきでもないと思います。

女系派が旧宮家養子案に反対する理由

 「旧宮家養子案」には、女系派と男系派と双方から反対がある。女系派の中には、旧皇族が養子になるのは、門地による差別で憲法違反という意見もあるが、皇室制度そのものが憲法で例外措置なので、内閣法制局も合憲だとしている。
 それに、旧皇族が皇族になるのが違憲であれば、生まれながらの皇族が誰もいなくなったら天皇制は廃止という事態になるが、憲法はそんなことを想定していない。
 女系派は、「悠仁さまも含めた上皇陛下の4人の孫に継承権を認める」としているだけで、昭和天皇などの女系子孫は対象にしていない。しかし、世界的にみても、特定の国王の子孫にだけ継承権を限定するのは、初代国王の子孫に限定するケースや、英国での宗教戦争など過去の事件の後始末をするケースに限られる。
 また、女系を認めても、上皇陛下の子孫だけでは何世代かしたら断絶する可能性が何割かあるから、女系論を推すならせめて明治天皇の女系子孫までは拡げるべきだ。旧宮家のうち四家や近衛家、裏千家、守谷家が該当するが、そういう主張を女系派はしていない。
 伏見宮家の分家である旧宮家は、室町時代に現皇室とは分かれて疎遠だという指摘があるが、江戸時代から明治にかけて、皇統が断絶する危機になると、伏見宮家か戦前に断絶した有栖川宮家や閑院宮家から継承者を迎えることが予定されており、長年縁遠かったわけではない。

プレジデントオンライン「『愛子天皇』は選択肢に入っていない…『旧宮家男子を養子に』という政府の皇族確保策が妙案である理由【2024編集部セレクション】」

 この記事の中で八幡和郎さんはこうおっしゃっています。

「女系派の中には、旧皇族が養子になるのは、門地による差別で憲法違反という意見もあるが、皇室制度そのものが憲法で例外措置なので、内閣法制局も合憲だとしている。」

 皇室から離れた旧11宮家を他の国民、それも清和源氏や桓武平氏などの数多いる天皇から男系で継承している国民男子の中から特別扱いすることが憲法違反ではないという認識も驚きですが、そもそも旧11宮家の基本的人権を無視して皇族にするというどこの前近代国家かといえる暴論を述べるのには呆れて物が言えません。
 皇位はもともと男系と女系の双系で継承されてきました。天皇になっていない草壁皇子と元明天皇の娘である元正天皇が、母である元明天皇の皇位を継承した女系継承が行われたことでも明らかです。これが変更されたのは明治の皇室典範制定からです。井上毅は、宮家の当主が女性であれば、男尊女卑の風潮のある国民が当主の配偶者の男性を当主であると考えてしまうのではないかと考えて皇位継承を双系から男系継承へと変更したのです。つまり、男系継承は明治以降に取り入れられた新しい取り決めであって、その根底には明治時代の国民に根強く残っていた男尊女卑が影響していたのです。しかしながら、現在では女性皇族が当主の宮家があったとしても国民が女性皇族の配偶者の男性を当主であるかのように感じることはないでしょう。そういう点から考えても、皇統が直系で継承されていくことが天皇の権威を損なわないものである上に、報道機関などが実施している世論調査においても、男系継承や女系継承について十分に分かっているとは言えない意見が多い中で、敬宮殿下が天皇になるのがふさわしいと述べる意見が多いことから国民も直系で継承されることに権威を感じていることが明らかになっています。
 そして、八幡和郎さんが皇室に敬意を感じて弥栄を願う立場でありながら「天皇制」などという左翼用語を用いるのもどうかと思いますが、

「旧皇族が皇族になるのが違憲であれば、生まれながらの皇族が誰もいなくなったら天皇制は廃止という事態になるが、憲法はそんなことを想定していない。」

という発言もどうかと思います。皇室は聖域ですから国民が簡単に皇族になったりすることができないからこそ権威があるのです。だからこそ、生まれながらの皇族が一人もいなくなれば天皇も皇室もなくなります。

もはや崩壊しているいわゆる「旧宮家の皇籍発揮」

 八幡和郎さんの主張するいわゆる「旧宮家の皇籍復帰」ももはや崩壊しています。まず第一には皇族になってもよいと考える旧11宮家の末裔がいるかどうか不明であることです。男系継承を主張する中心人物であった安倍晋三元総理大臣の発言が徐々に変化して旧11宮家を皇族にすることに触れなくなったことから考えても、内々に意向を調査して色良い返事がなされなかったことが推察されます。いわゆる「旧宮家の皇籍復帰」を唱える11宮家の末裔である竹田恒泰さんですら、皇族になる気がないなどとおっしゃっています。
 第二には、旧11宮家の末裔が養子縁組をする宮家の問題があります。男系継承のために旧11宮家の末裔を養子とするということは男子皇族の養子にならざるを得ず、まさか、暴力団の代目継承のようにお亡くなりになられた男性皇族を霊代として祭って旧11宮家の末裔を養子にするはずもありませんから、それに該当するのは天皇家、秋篠宮家、常陸宮家しかないのです。そのうち、天皇家が養子をとればその養子が皇位継承順位1位となり皇嗣になりますし、秋篠宮家が養子をとって養子が悠仁親王殿下より年長であればその養子が皇位継承順位2位となり、彼らが揺るがさないと主張する「皇嗣殿下から悠仁親王殿下への流れ」が簡単に消えて無くなります。そうなると高齢の常陸宮殿下が養子をとるほかありませんが、安定的な皇位継承のために常陸宮殿下は顔も見たことがないような旧11宮家の末裔を何人を養子にとるという不自然な家族が常陸宮家に出来上がることになります。このような不自然な家族から天皇になったとしても、その方を天皇として国民が権威を感じることがあるのでしょうか。そもそも、男系継承派の主張の根幹には、女系で継承すると配偶者によって実質的な皇位簒奪がなされるのではないかという懸念であったはずですが、彼らの主張するいわゆる「旧宮家の皇族復帰」により、皇位を継承するはずであった皇嗣殿下や悠仁親王殿下が旧11宮家の末裔にとってかわられることになるおそれがあるわけですが、この事態は彼らにとって歓迎すべきものなのでしょうか。

国民のために祈ることに天皇や皇族が誇りを持つことができる皇室典範改正を

 八幡和郎さんをはじめとする男系派の方が完全に見落としているのが天皇や皇族のお気持ちでしょう。常陸宮殿下に見ず知らずの旧11宮家の男子を養子にとるよう強いることも、女性皇族の配偶者と子を国民として身分の異なる家庭を持つように強いて家庭の一体感を失わせようとすることも、女性皇族に旧11宮家の末裔と結婚させようとすることも皇族が国民とのつながりを疑ってしまいかねない案であると思います。
 現在の皇室典範では、皇族から離れることができる規定があり、敬宮殿下と佳子内親王殿下はその意思に基づき、皇室会議の儀によって皇族の身分を離れることができますし、皇嗣殿下と悠仁親王殿下は、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の儀により、皇族の身分を離れることができます。皇族が国民とのつながりを疑うような事態となると、皇族から離れる方が多くなり、皇族から離れることができない方の祈りや天皇の宮中祭祀がなおざりになってしまうこともあるでしょう。八幡和郎さんはこれこそが天皇や皇室の終わりであると恐れないのでしょうか。