「君はいつも道理を外すから、道理のあるところに行きなさい」#想像していなかった未来
「君はいつも道理を外すから、道理のあるところに行きなさい」
私と茶道のであいはこんな助言からはじまった。二十代になったばかりで、馬鹿なことばかりをしていた時分であった。
「それは何処ですか」
こう尋ねると、そこが茶室であったのである。むろん、続くわけがなかった。そもそも柄ではない。しかし、そこは茶道の先生の器なのであろう。ジム帰りに半袖半ズボンで茶室に伺って叱られたり、よかれとおもって無心で坐禅をしていたら、
「もう少し考えなさい」
と諭されながら、二十年以上のらりくらりと茶道を続けていた。座禅とは無に徹することではないのかと抗議するも、若先生からも、
「君のは無ではなく、ちゃらんぽらんなだけだ」
と笑われたくらい、まあ、ひととしてひどかったのだ。ただ弟子にプロアスリートが多かったのが私の性に合い、文字通りちゃらんぽらんに稽古を続けてくることができた。
三十代半ば、カンボジアで起業をし、プノンペン郊外に福祉の短期大学を建てた。私としては、かなり大きな決断をしたつもりであったけれども、お茶の先生に報告すると、
「それはいい」
とたった一言で終わった。その短大内に茶室を建てた際は、惜しみない協力をしてくださった。まだ茶道が三千家に分かれるまえの寸法で設計図を書いてくださり、畏れ多いことだと、私も忠実に茶室の再現を試みたが、カンボジア人大工のいい加減な気質も手伝い、絶対美からは少し外れた茶室ができた。
気が付けば、クメール人(カンボジア人のこと)にお茶の稽古をする日々がはじまっていた。この想像だにしていなかった機会を得てから、はじめて私は茶の稽古を真剣にするようになった気がする。それでも、「私でごめん」という気持ちはあった。間違った点前をあたかも自然にやってしまえる才能があったため、いざ真面目にクメール人に稽古をつけようと思うと、細部がかなり怪しかった。
それでも、クメール人は今の日本人よりも真剣に稽古に打ち込んでくれた。おそらく仏教がまだ根強く残っているのであろう。茶は仏様に捧げるものだと伝えただけで、全員がたたずまいを直した。日本の或る国立大学からインターン生が来てくれたときは、クメール人が拙い日本語で学生にお茶の喫み方を教えるという転倒現象も起きていた。
しばらくすると、トゥクトゥクの屋根に畳一枚を、座席から落ちんばかりの茶道具を乗せて、プノンペン市街を巡る週末を過ごすようになった。噂が噂を呼び、西欧人がホテルで茶を喫みたがったのだ。着物でトゥクトゥクに乗っていると、クメール人の子どもたちが何人も、
「侍~!」
と叫んで追いかけてくる。縁とは怖いものだ。茶道になんら興味がなかった男が、茶を海外に普及していた。ハンガリーのラダイ博物館で茶を点てたときは、現地のひとから、
「無と空の違いはなんなの?」
と聞かれた。よほど日本人の私より禅を渇望している。もちろん、私にはそんな高尚なことはわかるわけがなく、
「零のまえに無があり、無のまえに空がある」
と茶道の先生の言葉をさらりと訳して、あとは真顔に徹した。海外だからできた誤魔化しである。
四十代、こちらも想像だにしていなかった未来であったが、父が急逝し、いきなり彼の事業を継ぐことになった。農福連携といって、障害をお持ちの方のお力を農業でお借りする事業である。そのお陰で、私の友人は外国人から障がい者へと移ろい、一緒に鍬を持って、畑を耕す日々がはじまった。
しかし、目まぐるしく移ろう暮らしの傍らには、いつも茶室があった。事業に失敗したときも、離婚したときも、茶室に行けば、いつもと変わらぬ茶で一服できた。茶道からすれば、その「いつも」は昔から脈々と継がれてきた「いつも」なのであろう。兎にも角にも、ホッとできる。
都内で或る畑びらきがあったときは、若先生におんぶに抱っこで、畑に炉を掘り、野点てをしていただいた。私はノウフク担当で、障がい者とともに畑を耕した。農作業で汗を流した障がい者が、そのまま茶で一服する姿は感動的なものがあったが、前日までの準備を考えると、もはや一期一会のイベントにしたい。
このようなことをしていたら、障がい者が作った茶碗や和菓子で茶会をひらく機会も得た。三渓園の古い茶室に、それらを作った障がい者たちを招いたのだけれども、女性陣はなんと着物で足を運んでくださっている。ちなみに私は障がい者が作ったからアートだという考えには、嫌悪感を抱くタイプの人間で、そこは障がいの有無に関係なく、ただ美しいものを純粋に作ろうとし続ければよいではないかという世界観で生きている。したがって、茶碗も和菓子も忖度なしのたしかなものが集まり、よき茶会となった。
私たちは完全にはわかりあえない存在なのかもしれない。どう工夫しても、争いは起こり、哀しみはつきない。しかし、私たちはわかりあえないながらも、互いに和することはできるのではないか。少なくとも、私にとっては、たった一服の茶が、外国人や障がい者となじませてくれた。
おそらく茶とは和合のことなのであろう。道理でうまくいくわけだと、四十代半ばにしてやっと感じた次第である。