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高堂つぶやき集。
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2020年3月の記事一覧

カンボジアの寺の裏に顔が幾つか置いてあった。おそらくこれから何処かの壁につけられるのだろうが、顔を置いた風景に妙に心が和んだものである。人は顔を作り過ぎてきたのかもしれない。外面を置き果てて、生きていく。それは近代人にとってとても叶わぬ夢ではあるが、憧れがふと顔をだすときがある。

背を「そびら」と読ませるときがあり、私はその音に好感を抱く。まえとは異なり、人のそびらの景色なるものは誤魔化せるものではない。たしかな人生を歩まれてきた方だけがだせる、香りに近き姿勢がある。一期は甘くない。しかし、それを乗り越えたところに無言のそびらがそびえたっているものなのだ。

人が本を生んだのではない。かつて本が人を刷ったのである、それこそ大量に。その本もマスクをするご時世だ。昔なら禅に救われた者もいようが、今や禅までもコロナに右往左往する始末。人類の物語は一冊からはじまり、今や限りなく巻末に近い。だからこそ私たちは今、読書に還るべきでないだろうか。

昔、或る靈能力者に靈視をされ、君は大丈夫だと爆笑された。靈視あとの爆笑ほど、氣になるものはない。何が視えたのかと訊ねたところ、ひとつ教えてくれた。モンゴル高原に和装姿でひとり立っていると。それから約二十年後モンゴル高原に実際に立ったわけだが、靈視があったから行った感がある(笑)。

カンボジア初の鉄道は未だ車よりも遅いけれども、その開通までには時間がかかった。特に始発のプノンペン駅近くでは、線路脇に低所得者が住みはじめ、薬が流行ってしまったのだ。そんな背景を視てきたせいだろうか、カンボジアの田舎駅で、客が鉄道から降りて軽食をとる風景には惹かれるものがある。