ガキ大将がいない子どもの世界
ガキ大将とは?
「ガキ大将」なんて言うと、イメージが悪いのかもしれません。
ドラえもんでいう所のジャイアンのポジションの人。
威張っている子ども。
でも、なぜかみんなついて行かざるを得ない存在感をもつ子ども。
我が子の周りを見ていても、
保育士をやっていた時の集団を見ていても、
ここまで威張る子どもはいませんでした(笑)
ただ、遊びを引っ張っている子どもはいます。
「ねぇ、鬼ご(鬼ごっこ)しよ!」
「次は、どろけい!(けいどろ)」
「あっちで、かくれんぼしよーぜ!」
「ねぇ、ねぇ。なわとびしよ」
「ドッジボール、やろう」
こうやって第一声を放ち、
遊びをリードする子どもたちです。
この指とまれが上手な子どもたちです。
私の印象では第2子さんが多いですね。
上の子どもたちから学んですでに知っているから
立ち回りがうまいんです。
クラスをもっていても、
長男長女が多いクラスはおとなしく様子を見ていて、
下の子が多いクラスは元気で調子を合わせやすいです。
園庭や公園で、楽しそうに走り回る上の子たちの姿を
遠目に見ながら下の子たちは学びます。
時には、兄妹の繋がりで入れてもらったりもします。
こうして、家庭内などで遊びが伝承されていきます。
今は、保育園や幼稚園などの集団でそれが行われています。
となると、ガキ大将のポジションは先生になります。
でも、遊びを知らない先生が多くなってきました。
私も長女なので、遊びを引っ張るのは苦手でした。
だから、大人になってから「遊び」を真剣に考えました。
「遊び」の研修に出かけたり、本をたくさん読みました。
保育園で子どもたちと一緒に遊びました。
私が得意な遊びのパターンは、
童話の真似っこ遊びから鬼ごっこにつなげていくものでした。
ただ、これは私が中心にいるから楽しい遊び。
子どもたちには、再現性がありません。
遊びを引っ張る
子どもたちの世界はやっぱり子どもたちのもの。
いくら、大人が引っ張っても遊びの中心は子どもたち。
その集団で楽しめるのが、一番いい遊び方です。
ガキ大将は、アイデアマンでもあります。
遊びのアイデアやパターンをいろいろ知っていて、
小さい子が入ってきたら、おまけルールをとりいれて
バランスをとっていきます。
ここまで寛容で、遊びをリードできる子どもは
昔は沢山いたそうです。
保育の本にそう書いてありました。
でも、今は難しいです。
ガキ大将が本気で集団とぶつかってケンカして学べないから。
その前に大人が止めに入るシステムになってしまっています。
もちろん、子どもたちに傷をつけないように。
安全のために必要です。これもまた知恵。
安全で平和な世界です。
保育園や幼稚園の中だけは。
子どもたちは、とっくみあいをすると加減を知りません。
顔をひっかいたり、石を投げる子も出てきますから。
未然に防ぐのが一番大事と言われています。
ただ、こうやってとっくみあいとか本気のケンカがない世界は、
ガキ大将に失敗が許されないということです。
相手の気持ちを学ぶ機会が失われています。
だからこそ、
家でのケンカはいいチャンスと思って
我が子にはケンカをさせてはいるものの……正直うるさいです(笑)
ケンカしないと、素直な感情を出し切れないまま大人になります。
悔しいとか、悲しいとか、もっとこうやって遊びたいとか
感情のエネルギーを解放する経験がない。
その結果、平和主義の省エネの大人が完成します。
私はそうでした。
ずっと、周りに合わせることを良しとしていたので感情が出せません。
だから、最初は子どもを本気で叱ることができませんでした。
そもそも叱る必要なんてないって思っていました。
見て学び、真似て学んで、おもしろがる
大人がわくわくしていないのに、
子どもにわくわくするよう保育や子育てができるなんて思えません。
だから、私は勉強したのですが、遊びとは実践です。
一緒に行動しないとダメなんです。
大人になってからですよ。
ひもごまを回せるようになったり、
竹馬にのれるようになったり、
久しぶりの鉄棒で逆上がりをして頭がくらくらしたり(笑)
先生対子ども20人で、本気で疲れて大笑いして、
鬼ごっこのリクエストがきて、ヘトヘトで。
大縄跳びに切り替えたら、次々子どもたちがくるから
腕が筋肉痛になりました。
一緒に遊ぶ。
その姿をみて、子どもたちは学び
真似をして、自分たちでやってみるのです。
でも、集団保育では安全が最優先です。
保育士さんたちはジレンマを抱えます。
もっと大胆にやらせてあげたいけれど……
仕事では難しい。
実践が大切なのは、十分わかります。
だって、子どもたちの表情が違うから。
一緒に遊ぶのも大切だし、集団を育てたい。
ガキ大将のような、リーダー核になる子どもたちを。
それが願いでした。
大人の在り方
仕事でその再現が難しかった理由は行事です。
保育園は四季に合わせた行事が目白押し。
その度に、製作したり
クッキングをとりいれたり、
お披露目のための練習があったりします。
その計画を立てたら日々はあっという間です。
これをこなすだけで忙しいのです。
子どもたちを見守りながら、教えていく。
大人にはわかりやすいです。
特に保護者向けには。
これを体験させてもらえているんだ!って。
こんなことを子どもたちは学んでいるのねって。
でもね、子どもたちがそれを本気でやりたいか?
というと、違う気もしました。
これで、自主性が育つのかも疑問でした。
ただ、教えられているだけ。
子どもが自由に選べる環境が理想なのかも。
そうやってもんもんと考えていました。
そんな時に、コロナがやってきたのです。
私は、チャンスと思いました。
行事が一気に潰れました。
集団で集まることがなくなりました。
練習時間が丸々空いたのです。
それで、やってみたのです。
あの時登園せざるを得なかった数人の子どもたちに
自由に選べる環境づくりを。
日常は淡々と
子どもたちが自由にやりたい事をとことんできる環境を作ると、
いつも時間になったら片付けだけどもっとできてうれしそう。
いつもより長く楽しめるので最初はよかったのです。
集中して遊びこめる。
でも、だんだん飽きてきたようです。
おもちゃを変化させても、ダメでした。
いつメン(いつものメンバー)も揃っていないのも大きいです。
コロナ禍でお休みの子も多かったので、
遊びを引っ張る子がいません。
保育は文化です。
そういう本を書いた園長先生がいます。
まさに、その通り。
保育とは、人の営みの伝承です。
人がそろっていないとダメでした。
今までやってきた事が、ふと中断された時、
私はチャンスと思っていたけど、
子どもたちにとっては、ぷつんと切れた時間。
途切れた日々。
また、発達障がいがある子どもたちは、
いつもと違うリズムに逆に戸惑ってしまい
部屋から脱走する姿もみられました。
不安。パニック。
これをチャンスと見たのは、私だけ。
子どもたちも大人たちも、不安だったのです。
そんな時に、いくら新しい事を取り入れようとしても拒否されました。
そっか。そういうことか。
私は、あれで1つ学びました。
今は、日常が戻っています。
外から子どもたちの元気な声が聞こえてきます。
人は、いつも通りが安心します。
日常のありがたさを感じる人が沢山います。
「この指とーまれ」
子どものためって思っていたけれど、
そうやって、人を集められる人になりたかったのは、
実は、私だったのかもしれません。
なるほど、エゴか。
そして、懐古。
書いてみると、初めて出会う私がいます。
やっぱり書くことはおもしろい。
こうして、今日も内省を楽しみます。