木の上に立ってみるしかできないのは『親』。でも、その木を自分で育てることはできるはず。
漢字から
親という漢字を分解すると、
この位置から、親ができることなんて限られています。
上から見ていてわかるのは、危険な事⚠
そっちに行ったら危ないよ~をあらかじめ教えてあげられます。
上から見ていてわかるのは、事の顛末。
あぁ、そういう言い方とかそんな行動をしたら友だちとケンカするよねって予想がつくので、あらかじめ止められます。
上から見ていてわかるのは、他の子と我が子の違い。
背が小さい、成長が遅いな。逆にうちの子の方が立派だわと気づくこと。
上から見ていてわかるのは、仲間に入れない子もいる事。
本当はきっと遊びたいけれど、あのグループにはなじめなさそう。
だって、親自身も経験してきたからこそ、心がざわざわするけど届かない。
上から見ていてもできること、それは道を提示する事だけ。
あっちには広場あるよ、あっちは遊具があるよ、あっちには狼がいるよ。
それでも、
子どもたちは自由だから
自分たちの行きたい方向に進んでいく。
時に広場に。
時に遊具に。
時にその場に立ちすくみ、
時に狼のもとへ。
上から見ていてできること、やっぱり我が身を見せること。
ここは見晴らしがよくて気持ちがいいから、早くみんなここにおいで。
登れる力をつけるといいよ、と導くこと。
親に焦点を当てる
子どもたちを上から見下ろすなんて傲慢で嫌だと言い、
木を降りて子どもたちと一緒に広場で遊ぶ人もいます。
保育士の私は最初そこにいました。
ただ、それだけでは子どもを守れません。
先生とは、先に生きているのだから
子どもたちよりよっぽど世の中を知っているはず。
だからこそ気づけることがある。
一緒に並んでいるだけじゃ死角が多くなってしまいます。
だから、たとえ傲慢でも木の上に立つ勇気が必要です。
木の上に登ったばかりの『親』は
きちんと指示もできないし、
きちんと誘導もできないし、
きちんと世話もできやしない。
ましてや自分の姿を見せるなんて自信がない。
親になってしまった自分が木に登ることで精一杯。
木にはやくリンゴの実をつけて、
子どもたちに食べさせてやりたいって思っちゃう。
子どもはまだミルクしか飲めないのに。
賢人は
そんな事を言っていると、どこからか年配の先生が現れます。
「あんたは、間違っている!」と。
もしかして、リンゴばかり追いかけていないで
きちんと子どもを見ろってこと?
金ばかりに目をやらないで、心を育てろと?
そんなことあなたに言われなくてもわかって……
「そうじゃない!漢字の由来が違っておる!
親という字は、木と辛と見の3つで成り立っておるんじゃ!
辛とは針じゃ!
昔々この村ではこの針を使って、大切な木に印をつけた。
それがのちに位牌となるのじゃ。まぁ、墓じゃ。
そこを拝むのは誰じゃ?」
「え?あー、身内とか親族とかです。。。」
「そうじゃ!親族、つまり親しい人たちのことじゃ。
これこそが、『親』という字の本当の由来じゃ。
親しいとか親切とかいう字を見てみよ。ほれ。
『親』が使われておるじゃろうに!」
とその老人は、何だか偉そうに語るのです。
これ、本当でしょうか?
どうやら、世の中のみんなが本当に伝えたい事は
このように外部のいろいろな刺激でずれてしまうことがあるようです。
そんな時は、「?」をもちましょう。
正しいとか間違っているとかが、本当に重要なのかを。
本当に伝えたいことは?
正直、私は漢字の由来にはそこまで興味がないのです。
親という漢字から、親の立場でできることを考えたかっただけです。
それなのに、周りからいろいろな事を言われてうまく考えられません。
そう、これは日常に起きていることそのまんま。
みんな我が子が大切なのは変わりありません。
時に、本当に木に登れなくて
子どもと一緒に野原にポツンと立っている親子もいます。
自分がそこにいることに気づけるかどうか。
そっちの方が問題です。
子ども食堂はあっちの道にあることを
木の上に登ったことがない人は知りません。
もっともっともっと俯瞰してみると、
木の高さにも違いがありました。
小さな木でいつでも登ったり降りたりができる位置にいる『親』もいるし、
大きな木にエレベーターを設置して行き来している『親』もいます。
上からさるかに合戦のさるのように渋柿を投げつける『親』もいます。
なんなら、そこに登っている子どももいるのです。
そう、子どもたちも学習しています。
世の中は、広い広いジャングルです。
小さな木も大きな木もあります。
1本の「木」も2本の木の「林」も3本の木の「森」も。
このnoteで例えるのなら、
それぞれのアカウントが木で、フォローの数が木の数でしょうか。
今の私の木は、そんなに高くありません。
子どもたちと一緒に遊ぶためにとっても低い木です。
時々高い木を見上げて、
あそこに登ってみたらどんな景色がみえるんだろう?
と興味を持つことがあります。
通行料を払えばいけることもあるだろうと思います。
でも、自分でこの低い木を育てていく事も楽しいと思うのです。
すくすく育てるnoteの木。
そんな文字の木を育てながら、考えます。
『親』自身も子どもと一緒に育っているんだなって。
さぁ、私はこれからどんな『親』になっていくのが幸せかな。
やっぱり毎日楽しく思考をめぐらせて遊ぶ事かもしれません。
子どもたちとともに。