後部座席から見た横顔
「海行こうよ」
大学3年生の夏。夏休み前のテストからようやく解放され、2人で飲んでいた時だ。美穂は乾杯のあと笑顔で言ってきた。
海へ行こう。1時間ぐらいドライブしたところに、きれいな海があるよね。一緒に思い出つくろうよ。
テストからの解放感を感じていた夜。大学3年生という就活を控えて何かしたいと思っていた夏。一番気の合う友人からのわくわくする誘いに、わたしはすぐに乗ったのだった。
曲がり道の多い山道を抜けたあと、その海は急に現れる。坂の上から見下ろす形で、はるか先まで広がる海が見えると、思わず車内に歓声が上がった。
結局あのあと、多い方が楽しいよねとほかの友人たちを誘って、集まったのが約10人。夏らしい青空が広がる日に車3台に分かれて出発し、そのうちの1台にわたしたちは乗っていた。
美穂が後部座席、わたしが助手席。そして、運転していたのが阿部だ。
「来てよかったね」
阿部に飲み物を渡しながら、わたしは浮かれていた。
夏休みに入って初めての友だちとの遠出。3人一緒に入っているサークルのこと、共通の知り合いのこと、最近はやりのアイドルグループのこと。たわいもない話で行きの車内は大盛り上がり。
そしてなにより、彼が隣にいることが嬉しかった。
あっという間に時間が過ぎて駐車場まであとちょっと。もうちょっとこの時が続けばいいのに。
「そんな遠くないよな。いいとこじゃん」。
ハンドルを握る阿部も、海が見えたことでテンションが上がっているようだ。
「あとで写真撮ろうね」
後ろから美穂の弾んだ声も聞こえた。
車を滑り込ませた駐車場から見た真夏の海は、キラキラと輝いていた。岩場が多く、泳いでいる魚まで見える透明な海。シーズンだというのに私たち以外誰もいない。
阿部たち男子は、Tシャツを脱いだらすぐに海に飛び込んでいった。美穂やわたしたち女子はそれを見て爆笑。
「青春っぽいね」
美穂と目を合わせて笑った。
きれいだね。カニいるよ。そこすべるから気をつけて。貝殻あった!
美穂とぱちゃぱちゃと水を弾きながら波打際や岩場を歩く。真夏で日差しはあるけれど、海の水はひんやりとしていて、風も通っていて気持ちよかった。
似たような貝殻を見つけて二人で分けたり、砂浜にうつる影で遊んで写真を撮ったり、みんなで割ったスイカを食べたり。こんな遊びは小学生以来だと笑いながら、全力で楽しんでいた。
「海、入ってこいよ。気持ちいいぜ」
阿部の呼ぶ声。見ると膝丈ぐらいの深さの海の中に立って、ニコニコしながらこちらに手を振っている。
声をかけられたことに弾む胸を押さえつつ、どうしようかな、あまり濡れるとちょっと面倒くさいなと考えてしまう。
そんなぐずぐずしているあいだに、隣から元気な声が上がった。
「いくいく!」
わっと勢いのまま海に入っていく美穂の姿が見えた。
あべちゃん、びしょぬれじゃん。美穂も海に入ったら一緒だろ。
阿部のいるところまで着いた美穂と阿部の声が聞こえる。
美穂は、面白いだろうからと途中のコンビニで買った水鉄砲を持っていったようだ。きゃははとはしゃぐ声とともに水の掛け合いがはじまった。
美穂が見たこともないような笑顔をしている。
阿部が見たことのないような笑顔をしている。
ひと段落ついて、ふと気づいたように「おいでよ」と二人から呼ばれたけれども、わたしは軽く笑って手を振るだけにした。波打ち際からぼんやりと二人の姿を見ることしかできなかった。
冷たかった水の温度が生温く感じた。
帰り道は、順調だった。それがなんだか物寂しかった。
運転は阿部。助手席の美穂も、後部座席のわたしも、だまりがち。疲れているというよりも、一日中遊んで、楽しかった今日が終わってしまうことを惜しむような気持ちが車内にあふれていた。
会話が途切れてしばらく静かになった時、わたしは窓の外に通りすぎる夜の景色に目を向けていた。
寝ちゃったかな。助手席の美穂の声が聞こえる。寝ちゃったかもね。阿部が答える。
暗くなった車内だと、後ろに座るわたしの顔は見えないのかもしれない。答えるのもなんだかけだるくて、わたしは寝たふりをすることにした。
行きとは違ってぽつりぽつりと阿部と美穂の間に起きる会話。対向車のライトに照らされて時折浮かび上がる横顔。二人は楽しそうだった。
美穂は前に言っていた。「好きな人はいないよ」。
阿部も前に言っていた。「付き合うとかはまだいいかな」。
でも今日の二人はとてもお似合いだった。
二人がまだいいかなと思っていても、いつかきっと、そう遠くない日に二人で過ごす日が来るだろうと思うほどに。
二人と一番仲の良いわたしが感じるのなら間違いない。
後部座席に座るわたしは、胸の痛みに気づかないフリをしながら、そっと目を閉じた。