「あるがまま」を愛する
関西/大学院修士課程文系/校閲志望
幼い頃から言葉が好きだった。
ひらがなを書きたいと思ったのは3歳の頃だったし、「開ける」と「開く(ひらく)」の意味の違いを聞いてわくわくし、そのわくわくを抱えたまま大学で言語学を専攻、大学院まで行った。そして、校閲の仕事をやってみたいと、漠然と思うようになった。
「実際に人はどのように言葉を使っているのか」「どうしてこのような言い方をするのか」。研究を通して考えるうちに、「この言葉はこう使わなければならない」「この言葉の使い方は間違っている」なんて考えは消え去った。だって、「パンがかたい」という旨を表現する際に、「かたい」を「硬い」と表記した例も、「固い」と表記した例も、「堅い」と表記した例も存在するのだ。どれか1つに使い方を絞るべき、なんてそんなことはないはずだ。
もちろん書き間違い、言い間違いなどはあるけれど、どんな言葉だってその人が紡いだものだ。どんな表現だって愛おしいしすべてをすくって抱きしめたい。そんな思いがずっとあった。
だから、そんな言葉についての考えを面接では隠すことなく述べた。
「言葉の乱れは、乱れではなく、言葉の変化だと思います」
「誤解を招いてしまう表現、人を傷つける表現以外は、どんな表現も許容されるべきだと思います」
手元にある電子辞書で「校閲」と調べて出てくる説明、「書類や原稿などの誤りや不備な点を調べて、加筆訂正すること」とは相容れない考え方。
それでも、この考え方を捨てることはできなかった。これを否定されるところでは働けない、と頑固極まりない思いすらあった。
面接官の方々はそんな私の考えを楽しそうに聞いてくれた。ああ、ここなら言葉のことを嫌いにならずに生きていける、そう思った。そして、そんな考えを持っている自分を、そんな自分を受け入れてくれた講談社を、そんな講談社から生まれる作品を、そんな作品を愛する人々を、全部愛して生きていけるのではないかと、そう思った。