横山裕一の芸術:ネオ漫画とニュートラルな絵画、《アースデイ》
※ このテキストは、500部限定で制作された横山裕一作品集『アースデイ』(2024年、ANOMALY)に収録されたものです。より多くの方に横山裕一の芸術について知ってもらおうと、横山裕一氏、ANOMALYに了解をいただきここに公開するものです。
(カバー写真:横山裕一《アースデイ》(2024)ANOMALY提供)
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横山裕一の芸術:ネオ漫画とニュートラルな絵画、《アースデイ》
金澤韻(かなざわこだま、現代美術キュレーター)
横山裕一は漫画家であり美術家である——そう言われることが多いと思いますが、「漫画家」と言った時にテレビアニメ化されるタイプの漫画が頭に浮かんでしまうので、少しひねった形で「横山裕一は“漫画家である美術家”、である」と言ったほうが真実に近づくかもしれません。はじめ絵画を制作していた横山裕一は、時間を描くことができるメディウムとして、キャリアのある時点で漫画を選び取りました。そのため基本的には、絵画でやろうと思っていたことを漫画で継続して試みていると考えられます。そういう意味で、彼の漫画は、数百枚におよぶ連続したドローイングであるということもできますし、長い(本の形で提示された)絵画であるということもできます。
じっさい、横山の漫画を読むのは、一般的な漫画を読むのとはまったく違う体験となります。横山の漫画=“ネオ漫画”のファンにはおなじみでしょうが、ここでいったん、どんな漫画なのかを記述してみましょう。
たとえば『アストロノート』(888ブックス、2019)の冒頭はこんな感じです。
ここまで読んでやっと、宇宙旅行を楽しむ人物たちの話だということがわかります。ただ、設定として明らかになるのはその部分のみなのです。彼らが人間なのか宇宙人なのか、生まれつきそのような風貌なのかあるいは何かの服飾品によってこういう見た目になっているのかといった情報は、結局最後まで与えられません。そして最後まで延々と、空を飛ぶ格好や変形していくお互いの身体などについての他愛もない会話を聞きながら、彼らの目的のない彷徨に付き合うことになります。私たちが通常、漫画を読むときに期待するストーリーはおろか、盛り上がりもオチも訪れず、また人物のプロファイルが行われないため、最低限の感情移入さえできる箇所はありません。
“意味不明の漫画”と聞けば、破綻して読めない漫画が思い浮かぶかもしれません。ですが、ちょっと待ってください。横山の漫画はきちんと漫画として読めるのです。
なぜか。それは、漫画の文法をきちんと踏まえた表現になっているからです。「時間の長さや流れ方をつかさどるコマの働きはもとより、動きを表す動線、音を表す描き文字、光や衝撃を表す鋭い波線などを縦横に駆使して」[i]、彼は漫画を制作しており、しっかり漫画として成立している表現であるからこそ、内容がどんなに荒唐無稽でも、私たち読者は眼前に展開する情景についていくことができるんですね。
逆に、そこを踏まえているからこそ、ものすごく壮大で自由な内容を横山は描けるのです。そして、横山の漫画が特定の世代や地域に限定されない普遍性を獲得しているのもこのためでしょう。彼の漫画本は世界8カ国で出版され、海外での展示も数多く開催されてきました。また、漫画という領域を超え、多様な分野のクリエイターやミュージシャンたちといくつものコラボレーションが行われてきました。
横山の漫画には文法や奇想天外さだけでなく、独特な美しさがあります。もちろん、数ある漫画表現の中には、内容の面白さだけではなく、見る者をうっとりさせるような見た目をもつ作品もあります。横山の漫画もそのようなタイプの作品ということができますが、全部のページが、いや、全部のコマが、ドローイング作品として成立するような密度を持っているのは、やはりたいへん珍しいと言えるのではないでしょうか。
横山は、意図的にパソコンを用いず、すべてを手で描いています。さらに、手による描写に出がちな癖を抑え、できるだけ線を無表情にしたいということで、実にさまざまな種類の定規を使いわけています。この気の遠くなるような手作業の集積が、横山の漫画を驚くべき密度をもった絵の連続へと導いているのです。
横山の漫画のコマの中に描かれているものを、特定の意味内容を伝える図像としてのみ鑑賞してきた方は、ぜひ一度、一枚の絵として鑑賞してみてください。そこに描かれた太かったり細かったりする直線と曲線、バランスよく配された黒色と白色、シンプルでありながら新鮮な驚きをもたらす造形、緊密な構図を生み出す描き文字、それらすべての要素が織りなすものを味わうとき、これまで体験したことのない、豊かな芸術がそこにあることに気づくことでしょう。
横山の漫画は、このような絵が何百と詰まったものなのです。もちろんバラバラの絵ではありません。かつて私は横山の漫画についてこう書きました。
「漫画において、コマは時間を表すものである。改めてこのことを確かめるとき、横山裕一の描くひとコマひとコマは、美しい時間の一粒一粒となって私たちの心にしみわたる」[ii]
横山の漫画は、ほぼ2秒毎に時を刻みながら展開する、見たこともない一続きの情景なのです。
また、漫画に関してもうひとつ特筆すべきは、彼が漫画という形式そのものだけでなく、漫画作品が本という形になり、廉価で頒布されることにこだわっていることです。作品が美術館や個人のコレクションになったり、美術館の展覧会で展示されたりするのは、狭い美術の世界のことで、横山にとってはあまり興味のわかないことだそうです。それよりも、ひとつの作品がたくさん印刷されて、千数百円〜数千円くらいで、欲しい人の手に届くほうがよいと横山は考えています。これまで世界の出版社から発行された横山の漫画本の総数は数万冊にのぼります。シビアな営利企業が横山の作品を出版してきたというその事実は、横山裕一という表現者のありようを考える上で非常に重要です。
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このユニークな美術家はどのようにしてできあがったのでしょうか。横山がメジャーになるまでの時代背景を探ってみましょう。
横山裕一は1967年、宮崎県都城市に生まれました。父親の仕事の都合で、中学校卒業までの間に久留米、御殿場、留萌、松戸、小倉、練馬、狭山と、南は九州から北は北海道まで数多くの引越しをしました。その中で、特に当時の久留米の情景として、造成地だらけだったことを振り返り、「完全な山の中ではなく、野原にコンクリートの水路が一本走っていたり、そういう中途半端な風景の中で遊んでいたのは、もしかしたら作品に関係があるのかもしれない」と語っています[iii]。ちなみに2010年に開催した「横山裕一:ネオ漫画の全記録」展では隣接する展示スペースを横山が資料として撮影した風景写真で埋め尽くすように展示しました。その田舎でもなく都市でもない風景は、確かに横山の作品の中にも見出すことができます。
1986年、横山は武蔵野美術大学油絵科に入学しました。大学2年生まではアカデミックな絵を描いていたといいますが、次第にキャンバスではないものに描くようになりました。卒業する頃はポップアートに傾倒し、ロバート・ラウシェンバーグに影響された卒業制作は、教授から怒られたといいます。「現代美術はごまかしだと思っていた」と横山が振り返る1980年代終盤、日本の美術系大学には、現代の表現をその名称に掲げるコースはまだありませんでした。東京藝術大学に「先端芸術表現科」が開設されるのは1999年のことで、1980年代、90年代は、今で言う「現代美術」という領域が認知され、美術系教育機関の中で市民権を獲得する過渡期の最終段階にあったと考えられます。この時期に、“油絵”や“日本画”といった素材に依拠しない表現活動や、ファインアートとしての写真・映像、インスタレーション等の表現を試みる学生たちは、旧来の学科のカテゴリーの中で、多くの場合、指導者からは理解を得ることなく生き延びなければなりませんでした。
卒業後の横山は、芸術家を志し、次々と公募展に応募しましたが、いっこうに入選する気配はなかったといいます[iv]。卒業してからおよそ5年ほどが経過した1995年ごろ、横山はついに絵画展に応募するのを諦めて、紙の作品を描くようになります。横山によるとこれは純粋に芸術を遂行する上での決定というより、当時借りていたスタジオ兼住まいが狭かったこと、また画材の購入費用などが主な理由だそうです。しかしともあれ、翌年、イラストレーション誌の公募「チョイス」に入賞し、年度賞にも入賞、その勢いで雑誌「鳩よ!」の町田康による連載の挿絵を手掛け、それをきっかけにブックデザイナー・菊地信義のもと、さまざまな本の表紙に作品が起用されはじめます。
「商業路線を受け入れた」と横山は語りますが、その背景にはテレビや出版を基盤としたマスカルチャー、サブカルチャーが最盛期を迎えていたバブル経済後期の状況がありました。また1990年代は、ある意味で漫画文化がピークに達した時期ともいえるでしょう。「漫画の神様」と言われた手塚治虫の死去(1989)からまだ数年、戦後漫画の草分け的存在である赤塚不二雄もご存命でしたし、少年漫画雑誌は例えば「週刊少年ジャンプ」が600万部を発行するなどまさに全盛をほこっていました。大人が読む文化としても成熟を見せ、萩尾望都、山岸凉子、諸星大二郎ら少し上の世代から、ニューウェーブとよばれた高野文子、大友克洋らが継続して活躍する中、岡崎京子や吉田戦車、松本大洋らの世代が台頭していました。1995年には日本での漫画の総売上が史上最高を記録しています。
このような時代に、横山が表現のひとつとして漫画を考えたことは興味深いことです。また横山が「ニュー土木」を掲載して広く認知される大きなきっかけとなった「COMIC CUE」[v](イースト・プレス、1994〜2003)は、それまで別々の出版社で仕事をしてきた個性的な漫画家たちが一同に集い、統一されたテーマで作品を発表するなど、漫画カルチャーの高まりと最先端を体現した媒体でした。
伝統的な、あるいはアカデミックな美大教育の中での行き場のなさ、公募展に挑戦する中で感じた限界と、そのいっぽうで、マスカルチャーの興隆を背景に紙の仕事によって見出され、その後漫画が高い評価を得ていったという経緯は、横山裕一を語る上で抑えておきたいポイントです。「漫画と美術」という問題系は、当然日本の近現代をつらぬく自己植民地化およびその後の諸問題と密接に関わっています。横山はその大きなうねりの中、試行錯誤の末に独自の表現にたどりついたサバイバーであり、それどころか、この歴史的に引き裂かれた文化の流れをこれ以上ないほど創造的に乗り越え、結びつけた、稀有な存在なのです。[vi]
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ここまで横山裕一の漫画について見てきましたが、それでは絵画作品はどうでしょうか。
絵画と漫画の関連でよく例に挙げられる作家として、既存漫画を絵画にしたロイ・リキテンシュタインや、感情の発露としてのキャラクター的図像を描いた奈良美智、戦後日本の精神文化を漫画様図像で表象した村上隆らがいますが、横山が彼らとはまったく違う位相にいることは、これまでの説明ですでに明らかだと思います。よく引き合いに出される立石大河亞には確かに近いものを感じますが、立石は絵画に軸足を置いています。
横山は逆で、彼によると、本業は漫画であって、絵画は手遊びだといいます。しかしながら彼の絵画もやはり独特な魅力があります。絵画における筆致は漫画に比べるとラフな印象を受けます。大胆で明るい色彩も相まって、漫画が記述的なら、絵画は自動筆記的とでも言えそうです。視覚言語としては、丸や四角、またほぼ均一に塗り潰された単純な形態など、記号的で抽象的な表現が特徴的です。《タンカーと高層マンション》(1992)などの風景画や、《インタビュー》(1994)などに見られるなんらかの情景は、奥行きのあるモチーフの中にあえてシールのように薄っぺらい領域が挿入されています。
横山の話の中には、よく褒め言葉として「ニュートラル」という言葉が登場するのですが、これらの絵画を鑑賞するとき、「ニュートラル」がキーワードとして私の脳裏に浮かんでくるのです。「ニュートラル」は、例えば旅行で訪れた青森の湖の風景を讃える時などに使われるのですが、人間的な感情と関連しない美を指しているようです。横山は絵画で、どんな風景も情景も対象も、ニュートラルに描こうとして奥行きを無効化し、固有名詞を取り去り、できるだけ記号的なものとして表現しているのではないかと思います。
風景や人物(らしきもの)たちが、そこに在るというだけで、面白く、美しい——自分がどう思おうと、どう感じようと関係なく。横山の絵画で試みられていることは、漫画とも共通するものです。名前のない人物(らしきもの)たちが抽象度の高い風景の中を歩いていく。目的はないけれど、ただただ、歩を進める先に発見があり、旅は/世界は/人生は、そんな一コマの連続である、それを誰かと分かち合えればなおよし、である——。
横山はずっとそのことを、その“道中”が愉しみで満たされているということを、絵画や漫画のコマで私たちに語りかけているのです。
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展覧会「アースデイ」では、横山には珍しく、立体作品が制作されました。もとになったのは小学生の時に制作した地球儀で、イメージは『PLAZA』(888ブックス、2019)に登場する地球像「アースデイ」です。地球儀を作品にするため、胴体を新たに制作する試行錯誤の過程で、全5点の《アースデイ》が生み出されました。《アースデイ》たちは東西南北4面に顔が描かれ、「現代の阿修羅像」(横山の言)となっています。多くは3〜4個の環をもち、それらは入れ替えが可能です。
地球、あるいは世界地図のモチーフは、初期からしばしば横山の作品に顔を出していました。いずれも緯度経度が描き込まれているため、地球は星そのものというよりも、地球儀であり世界地図であるのだと推察されます。これが概念上の要求でそうなっているのか、造形上の要求なのか、いまはわかりませんが、ともあれそこには、「ニュー土木」で見せた天地創造のビジョンや、「NIWA」をはじめ多くの横山作品に見られる、探索されるべき世界の像も、ある程度は関係しているでしょう。
さまざまな角度から見ることのできるこの立体作品は、もちろん、ある程度時間をかけて鑑賞するよう、私たちに誘いかけます。私たちのまなざしが切り取る地球像の一枚一枚は、2秒毎に愉しみに満ちた一コマ一コマとなって私たちの人生の時間に刻まれるでしょう。(了)
[i] 金澤韻「私たちの身辺を満たす時を描く——横山裕一の漫画」、『横山裕一 ネオ漫画の全記録:わたしは時間を描いている』展覧会記録集(川崎市市民ミュージアム、2010)
[ii] 同上
[iii] 横山裕一・金澤韻 編「横山裕一年譜」、『横山裕一 ネオ漫画の全記録:わたしは時間を描いている』展覧会記録集より。以降、横山の半生についての記述は同年譜を参照しました。
[iv] 一回だけ、1993年、公募ガイドを見て応募した「松島現代美術展」という展覧会に参加しています。これは野外展示で、横山にとってはじめてのパブリックな展覧会への参加となりました。この時の出品作品が《防水インパール》(1992)で、ベニヤ板にペンキで描かれた絵画作品です。この時代に制作された横山の平面作品の多くがやはりベニヤ板を使用したもので、屋外に展示されたり、釘を直接打たれたりしており、キャンバスに描かれた絵画との扱いの違いを感じさせられます。作品の物質性にこだわりがないわけではありませんが、横山の絵画作品はどちらかと言うと看板のように支持体の上に貼られた一枚の軽いイメージのような存在感です。
[v] 横山はVol. 100(2001)とVol. 200(2002)に「ニュー土木」を掲載。
[vi] もうひとつ、時代背景に加えて記しておきたいのが、横山の記録癖です。横山は、本人にしか意味のわからない不思議な記号で満たされた日記を高校二年生の頃につけ始め、また、大学3年生の頃から、友人との会話などをテープに録音しはじめています。ほかにも、2010年、「ネオ漫画の全記録」展広報のために私が当時開設したツイッター(現X)アカウント「デイリー横山裕一」を、展覧会終了後、横山本人が引き継ぎました。今日まで14年間ほぼ毎日、横山の日常の出来事や雑感が投稿されています。「記録しておかないと、なんだか不安なんですよね」と横山は私に語ったことがあります。よくテクノミュージックになぞらえられる横山の漫画ですが、この、短い間隔で刻まれるように記述されていく情景が、横山の、すべてを記録しておきたいという希求と重なってきます。