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vol.14 「教養は強要ではない。」

骨を食べ過ぎた犬は粉のうんこをする。

個人の学びの質は上がっている。気をつけなければ学校の立場は危ういぞ。と忠告したい気分です。

教育に携わる人は慎重に考えて下さい。個人がピンポイントで興味を掘り下げる学びは教育者が仕事の為に嫌々学んで得た浅く広い指導要領の涵養を軽く凌駕しはじめています。

先生にお伺いします。あなたの学びは楽しいですか?

私の趣味はランニングです。
今はコロナの影響でジムに行けないので専ら家の近所を走っています。
その辺をぐるっと2周して8km弱。

私にとってランニングは苦痛ではありません。
自然に流れに任せて走りたくなって走っています。

近所の学校では学校の周りを死んだ魚の眼をした学生が走っています。
見ていて痛々しくて本当に辛そうに嫌そうに走っています。
私もその中に入れられたら辛いだろうなと思います。

私が走る時は笑顔が出る程度のスピードで走っています。
それ以上のスピードは出しません。
辛いので。
そして、怪我をしないように。
大体8km程度走るので、少しでも痛みがあったり、息が切れたりするとすぐに体が悲鳴をあげます。
少しでも痛みがある状態で長距離を走れば次の日は階段が登れない程度の痛みに襲われます。
本当に少しの痛みでも8km走っている間に少しずつ怪我になるのです。
ほんの僅かにでも痛みがあるということは干渉してはいけない所が触れ合っていたり、かかり過ぎてはならない負荷がかかっています。

タイトルに教養は強要ではないと書かせて頂きました。
教養を養うには強要してはならないという意味です。
つまり本当に教えたければ強要してはならない。
私も学生の頃経験がありますが、無理矢理走らせることは逆効果です。
何の意味もありません。
無理矢理走らせれば怪我をする学生が大勢出てくるでしょうし、
何より、2度と走りたくないと皆思うと思います。
また走りたいと思わせることが教育です。


学校の授業で走らせる理由は何でしょうか?
健康のためなら、少しずつ、歩くところから始めて、何日も何年もかけて歩いて、筋力を作り、脳に「長時間、長距離、歩く」ということを刷り込むべきです。
歩くことが当たり前になれば長時間、長距離歩くことが苦痛にはなりません。
楽しくなります。
人間は本来、長時間、長距離歩ける生き物です。
そのゾーンに入れて、覚醒させるべきです。走るのはそれから。

急に長距離、長時間走らせることは絶対にしてはなりません。
怪我をするし、嫌になります。
もしかして、根性をつけるために強制的に長時間、長距離走らせますか?
そんな教育に全く意味はありません。
何故ならば、そのような指導をしている先生よりもはるかに私たちは根性があるからです。
根性と称して学生に強要する先生がもしいらしたら何なら根性比べしてみますか?
それに意味があるというのならあなたが根性を見せてください。
生徒に見せてください。
文科省は根性を推進していますか?
毎日、毎日でなくとも週に2〜3日程度定期で何年も走るならわかります。
たったの数ヶ月長距離を走らせても意味はありません。
先生ならわかっているはずです。

私が思うのは、そのような授業計画を立ててしまう、それで流してしまうやり方がすごく大きな問題ということ。意味のない根性論が、無理で誤った内容のない授業を何でも根性で良かったことにしてしまう悪癖があるなということです。

授業は導入、展開が大切です。
そして何よりも成果を上げることです。
今の学校は成果、つまり生徒が確実に育ったということにこだわっていません。
こだわらないことが常識でしょうが、実際にはとても恐ろしいことがなされていると私は考えます。

例えば生徒を強制的に走らせる。
これを
先生にさせたらどうなりますか?
社会問題になりますよね?

これを
保護者にやらせたらどうなりますか?
社会問題になります。

人にやらせて社会問題になることをなぜ学校は生徒にやらせますか?

教養とはリベラルアートという意味があります。
つまり自由という意味です。
つまり、教養とは強要ではない。

社会には大きな誤解があります。
勉強が強制的にやらせなければ子供はやらないと考えられていることです。
これはすなわち、導入と展開でしくじっている。

我が家で私は中卒の父と偏差値最底辺の高卒の包丁を毎日振り回して絶叫している母に勉強を強要されました。
彼らはこれを立派な教育であり、教養豊かな行為だと信じて止みません。なぜならば、彼らは学校や、家庭で同じように習ったからです。偏差値底辺の荒れた高校の指導の様子は想像できます。

導入は怒号から始まり、解き方、覚え方、勉強の仕方、どのように成績が上がるかなどの説明は抜きに問題を読まされ、答えが違えば、殴られる。

勉強はやればいい。やらせればいいというものではありません。
我が家のようなやり方は学校が社会に教えたものです。
残念ながら我が家のような家はまだまだ後を絶たない。

私が小学校に入った40年前と今も本質的には何も変わっていないのです。

そうして毎年学生が走る姿を見ています。

犬は粉のうんこをします。犬は大好きな骨を食べつくし、腸は大好きな骨をパサッパサッの粉になるまで吸い尽くすのです。学校の教育もかくありたいものです。

学びは吸い付くしたくなるほど楽しいものなのです。知識の涵養はそのようにしてできるものです。

貧困は学びによって抜けられます。

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