ホームスクール教育】学校が子供を無能にする仕組み
この前、学校から招待され子供たちと話す機会があったのですが、ちょっと想像してみてください。もしあなたが毎日ただ働きを強いられながら、自分の意思とは関係のない会社に派遣され1時間の会議が始まり、それが終わると10分後にまた別の会議。それが終わったとしてもまた別の会議が続く。議題はランダムなようにも見えますが、実はすべての答えが決まっています。Xに注目し、Yを活用し、Zを記憶する。そして最も主たる仕事は黙って上司の話を聞き、イスに座ってメモを取る。定時になったらやっと解放されたと思うでしょう。残念ですが一部の仕事は家に持ち帰る決まりになっています。
身の毛がよだつようなお話ですが子供の視点に立つと、これが学校の仕組みです。きっとこの動画をご覧になっているほとんど人が公教育を受けてから大人になったことでしょう。物心がつく前に「みんなそうだ」「昔からそうだ」っと誰かに言われ、しぶしぶ学校へ通うことになる。もちろんそれで得られるものも沢山あるのでしょうが、制度上の限界もありますし副作用だってたくさんある。アメリカの一部の家庭では政府に子供の教育を任せず自宅で教育する「ホームスクール」という学習スタイルが増えており一定の成果が上がっている。まず義務教育はどこから始まったのでしょう?
学校の起源は古代ギリシャにまでさかのぼる。創設者のプラトンは「理想的な国家には理想的な国民が必要で、理想的な国民には理想的な教育が必要である」っと訴え学校を設立。1800年頃になるとお金のあるなしに関わらず全国民が読み書きを習得する義務教育が導入され、校歌や体操、宗教教育など画一的な教育システムが確立。これが文化的にも経済的にもかなりうまく機能した。これまで寺子屋や私塾などでバラバラに行われていたカリキュラムを政府が一元化。ほとんどの国民は疑うこともなく学校へ通うことになる。
教室の中で何が行われるのかというと、これからどうすれば幸せになれるのか?何を学ぶべきなのか?徹底的に叩き込まれ自主的なオリエンテーションは場が乱れるので注意を受ける。一応にリーダーシップトレーニングのような授業もするが形式的なもので台本は決められており着地点も織り込み済み。間違った場所への着地は許されない。個人の興味や関心・レベルなども考慮しない。数十年前に知らない誰かが考え出したいくつかの教科しか持ち込みは禁止され、すでに分りきった問題であったとしても常に一定のペースで授業は展開する。勉強についてこれなかったり、そもそも授業に興味がわかない子はイスに座って貴重な時間と可能性を浪費する。おかげで卒業すると自分が何を望んでいるのか分からなくなり、ただ従うだけの人形になってしまうことがしばしば起こる。
あらゆる専門知識にアクセスしやすくなった現代において学び方を政府に独占させておくのは得策でしょうか?場合によってはアプリ一発で世界トップレベルの通信教育を受けられる状況なのに伝統的な体制のままアップデートしないのはベストと言い切れるのでしょうか?
代替案のひとつに学校へは通わず独自のカリキュラムで勉強を進めるホームスクールというスタイルもある。日本ではあまり聞きなじみがなくネガティブなコミュ障の引籠りを連想するかもしれませんが歴代のアメリカ大統領、発明王のエジソン、実業家のカーネルサンダース、ミュージシャンのテイラースウィフトもホームスクールです。
子供たちは自分で課題を定義して練習に取り組み始めるので主体性が育まれる。遊んだり、家事を手伝ったり、本を読んだり、冒険にでたり、オンライン講座を受けたり、ボランティアやスポーツのコミュニティに参加して、毎日が判断の連続です。自分の興味を探求し好きなだけ時間を使って深堀できる。別に学校が嫌いなわけではありませんから、興味のある授業や部活があるのなら数時間だけ学校に通ったりもする。(※要件が異なるため地域の教育委員会と要相談)自主的に決める練習をしていますから自分が何を望んでいるのかよく知るようになり、さらに単一のコミュニティに依存せず複数のコミュニティを横断しながら生活しているので社会に潜む悪に疑問を持てるようになる。
親はかなり重要な役目を担います。子供の学習速度に合わせた教材や家庭教師などのリソースを提供し、学習を促しながら上達の振り返りを手助けする。わが子が学校に通っていなくても税金は納めなきゃいけませんし、金銭的にも時間的にもそれ相応の準備が必要です。子供の成長に耐えられる親の適応力が求められる。
確かにホームスクールを実装できる家庭はそう多くないかも知れない。“そもそもうちの子は飽き性だから学校のような管理下に置いておかないと、長く集中することは難しいんじゃないか”と懸念する親御さんもいるはずです。飽き性なのはその子の性格の問題でしょうか?それとも遺伝?病気の一種?もしかするとその原因は「褒め方」に問題があるのかもしれません。
大人の手助けなしに生きていける子供は1人もいません。なので「愛されるために必要なもの」を日夜、探索しており特に褒め言葉には驚くほど敏感です。大人たちは子供に対して何を求めているのか正確に知っておく必要がある。なぜならその誉め言葉が子供の生存戦略の中核となり優先順位や世界観、キャラクターなどに多大な影響を与える。
スタンフォード大学のキャロル・ドゥエックは褒め方の研究で興味深い発見をしています。タイトルは「子どもの成功を褒めるとモティベーションとパフォーマンスが低下する」ずいぶん驚きの結論ですが7回繰り返して同じ結果が出たそうです。全国から400人の5年生を集めものすごく簡単なIQテストを受けてもらう。テストが終わると2種類のフィードバックが試されました。ひとつ目のグループは「本当に頭が良い」っと才能を褒める。ふたつ目のグループは「本当によく頑張った」っと努力を褒める。このふたつには絶妙なニュアンスの違いしかないないように思えますが、子供に与える影響は絶大なものでした。(※ちなみに3つ目の「フィードバックなし」グループは割愛)
結果①:才能を褒められた67%は確実に上手くできる課題しか取り組まなくなり、最小限の努力しかしなくなった。見られているのは結果であり評価を下げるようなことはしたくないので素早く完璧にできることしかしなくなる。努力を褒められた92%は失敗する可能性があったとしても、より多くを学ぶためにより難しい課題を選ぶようになった。チャレンジを選んだ時点で称賛に値すると感じるようになり取り組み自体を楽しむようになる。
結果②:確実に失敗する超難問が与えられた場合、努力を褒められたグループは挫折に対してより粘り強く一生懸命に克服しようと取り組んだ。失敗は苦手を克服するチャンスだと捉え、再挑戦を有意義に感じていた。一方、才能を褒められたグループはすぐにイライラしはじめ諦めが早くなり、さらにテスト結果の発表では自分の成績を偽る傾向が増えた。大衆の面前にさらされるホワイトボードへの記入だろうが匿名性の高い紙への記入だろうが人に伝える自分の点数について嘘をつくようになった。才能を褒められたことで成績と自尊心が強く結びついており失敗を敗者の証明だと思い込むようになった。
結果③:結果②のような超難問で挫折を経験した後で、改めて一番初めの「ものすごく簡単なテスト」を受け直してもらうと才能を褒められたグループは平均して約-20%成績が悪くなった。一方、努力を褒められたグループは平均して約30%大幅な改善をみせた。褒め方の微妙なニュアンスの違いで成績に50%もの差が生じたのは驚きです。その原因は失敗に対する切り替えの早さが関係しています。才能を褒められたグループは挫折して感じるプレッシャー、不安、失望、罪悪感、屈辱など精神的苦痛を長く味わい集中力と記憶力の双方が著しく低下した。努力を褒められたグループも同様の感情を抱いたのですが、ごく短い期間でした。
どちらの子供も褒めてもらいたくて頑張っていますし、すべての親は前向きに励ましたくて褒めている。しかし成績や点数、トロフィーや速さなどの才能を褒めると成長を阻害する場合が多い。そして、ほとんどの大人たちから聞こえてくるのは、親も教師もコーチも成績の話ばかりです。子供の成長を願うなら献身的な努力に関心を向けるべきで、褒めるべきはその姿勢にある。結局のところ本人が一番認めてほしい部分とは自分が何を選択し、挫折とどう向き合い、どれだけの努力をしてきたのか。その個性なのだから。
進学率や合格率を重要視する学校なら理想的な教育を提供する環境ではありません。そうして育つ国民は幸福が何かもよく知らずプレッシャーに怯えたまま能力の発揮もままならない。互いを競争させ最も優れた者を選抜していく実力主義は繁栄の道を歩ませていると思い込んだ大人たちのエゴなのかもしれない。その犠牲者になるのは次の子供を育てていく今の子供たちです。
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