テクノロジーが進化しないのは国民性?
先日、イタリア人の友人が放った一言。
「新しいシステムやテクノロジーは好きじゃないな。やっぱり人とのコミュニケーションを大事にしたいから。」
この言葉によって、私がイタリアに来てから考え始めた仮説が確信に変わった。その仮説とは「イタリアはITやテクノロジーに弱い」ということだ。
正直こちらに来るまでイタリアにそのようなイメージを抱いたことがなかった。しかし、生活の基盤を作るにあたっての面倒なダンジョンを何度も経験していくうちにふと、「きっと日本だったら一瞬で完了することがイタリアでは1日以上費やされるのだな。」と感じるようになった。
私は健康保険証を取得するまでに1年の月日を費やした。イタリアに入国すると、まず滞在許可証の取得から始まり、住民登録、身分証明書の発行、そして最後にようやく健康保険証を受け取ることができる。RPGかよって思わずツッコミをいれたくなってしまうのがイタリア。
しかも日本であれば住民登録より先は全て区役所・市役所で手続きが完了するが、イタリアは管轄が違うためそれぞれの場所で予約を取らないといけない。この予約は運次第で早ければ2週間、遅ければ3ヶ月以上も待たされることになる。日本みたいにお昼休憩中に行ったり、土曜日の午前中に開放している日を狙っていくこともできない。予約がとれた平日に行くしかないため、仕事している人はどうしているのだろう?と疑問に感じてしまう。
住民登録をしたら本当にそこに住んでいるか直接職員が確認に訪れる。な、な、なんというマニュアルな方式なんだ・・・・!!
イタリア人は新しいシステムにめっぽう弱い。身分証明書の手続きをした際だった。担当してくれた女性はパソコンが全く使えなかった。どうやら新しく導入したシステムを一切覚えていないようである。そうなると隣のベテラン職員によるOJTレッスンが目の前で行われる。
「ここクリックして、でこれを入力して・・・違うそこじゃない、ここだよ」
こちらも1時間、OJTの様子を黙って見守りようやく手続きが完了したのだった。その間、ベテラン職員の窓口はもちろん閉まってしまうので、手続きに訪れた人はさらに長い間自分の番号が呼ばれるのをただひたすら待つことになる。
滞在許可証の申請を、私はある事情でミラノではなく、違う都市で行った。その際、最初に郵便局にて書類をだすのだが、郵便局の職員は提出した書類を手にして「これは何ですか?」と、目を丸める。大声で、
「滞在許可証の手続きって何?」と、ベテラン職員を呼びたてる。この郵便局、滞在許可証のみならず他の手続きもわからない職員が続出。その度にベテラン職員が一つ一つ時間をかけて解決していく。それによって発生するのが長い長い待ち時間。郵便局行くだけで一大イベントになっちゃう。
公共サービスを利用すると、システムの破綻を感じるがこれは提供する側の
サービスが整っていないだけではなく、利用するイタリア人側にも問題がある、と私は考察している。
冒頭での友人の言葉、「コミュニケーション」。
そう、イタリアはコミュニケーションを使っての抜け道が用意されているのだ。
事例をあげると、私は先日かかりつけ医の予約をとって診療所を訪れた。かかりつけ医は予約制なので予約をとった時間に訪れるのが基本である。しかし、予約をとらないで訪れる人も多い。「先生すみません、どうしても診ていただきたくて・・・」と、懇願。その度に医者は「ちゃんと予約とってください」とたしなめるが決して追い返すことはなく、予約なしの患者にも診察の時間を作ってあげるのだ。懐が深いと感じる一方、それによって結局予約時間通りに来た私の方が待たされる羽目になるため、平等主義な日本人としてはどうも腑に落ちない。
イタリア人は人と話すが大好きでコミュニケーション力がとても高い。人の懐に入る込むのがなんとも上手い。ネット上では予約が完売してても電話して情にうったえたら何とかなった、という話も耳にする。ネットよりも電話で解決することが多いイタリア社会にシステムが普及しないのも当然のことなのかもしれない。
コミュニケーションと言えば、最近姪っ子の卒業試験の話が大変興味深かったので最後にこのお話で締めくくりたい。
先日、姪っ子は無事に中学の卒業試験を終えた。試験と聞くと、試験日が決まっていて、各科目ごとの記述試験に生徒が一斉に挑むのが日本の試験だと思う。もちろんイタリアも日本同様の記述試験はあるが、もう一つ卒業論文を発表しなければならない。自分でテーマを決めてそれについて色んな科目を関連させながら先生の前で発表を行う。
姪は「色(colour)」をテーマに選び、ファシズム、ソーラーシステム、印象派のアート、そしてキング牧師を例に出した白人・黒人問題に関することを色に関連付けてプレゼンテーションを行った。
日本と違って若い時から人の前で自分の意見を発表する機会があるのはとても良い教育だな、と感じた。その一方でコミュニケーション能力がイタリア社会においていかに重要視されているのか、についても考えさせられた。
日本のように全員が同じ問題に回答するのならば、問題により多く正解すればより良い得点が得られる。しかし、イタリアのようなプレゼンテーション方式だと、いかにテーマに沿って事前準備をしてきたかに加えて、いかにうまくプレゼンテーションができたか、という相手へ伝える力も採点基準になってくると私は感じた。
人と関わる機会が多いイタリアだからこそ、コミュニケーションの大切さは生活しているとより感じる。逆を言えば、人とコミュニケーションをとるのが苦手なイタリア人は生活するのが窮屈に感じるのかもしれない。日本では大人しくて落ち着いている、と評価される人が、イタリアでは根暗でコミュニケーション能力が欠落している、と判断されるのかもしれない。その国の社会で求められることと自分がかけ離れている場合は大変生きづらいのかもしれない。
国が違えば大切にされてること、求められることも違うのだな、とつくづく実感するコブティーナでした。