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センチュリーミュージアムとわたし:1
山手線の描く円を、中央・総武線に乗って真っ二つに突っ切る。
そのときにはかならず、神田川の見える位置に陣取ることにしている。
窓の外に目を遣れば、水面に照り返す陽光、並木の梢がまぶしく、石垣や土塁、山の手の丘陵が目に入ってくる。
東京のどの路線にも勝るほどに「お江戸」らしさを感じさせる車窓風景が、そこには広がっている。
広重《名所江戸百景》の一図では、高く切り立った崖のはるか下に神田川が流れている。手前が昌平橋、右の塀が湯島聖堂。聖橋はこの当時、まだない。
東京を知る人ならば、この光景が大仰なデフォルメではないことが即座にわかるだろう。コンクリートで塗り固められてはいるが、このあたりの地形は広重が見、描いたままの急勾配を保っているのだ。
新宿方面から水道橋の駅を出て、都立工芸高校のあたりから登り坂になっていく。傾斜の断面を目で追いながらいつも思い浮かべるのは、広重のこの図であり、崖の上にそびえる高層建築・センチュリータワーのことなのである。
現在は順天堂大学の校舎となっているこのビルの地下には、かつて「センチュリーミュージアム」という美術館があった。
センチュリーミュージアムは「書の美術館」。古筆や墨蹟、古写経に古典籍が主体で、若干の古画と仏教美術、唐鏡・和鏡、硯箱や文箱、水滴といった文房具も含んでいる。
「言語文化」というテーマでくくられる統一感あるコレクションを築いたのは、学習参考書の老舗版元・旺文社を創業した赤尾好夫だった。
蒐集のブレーンは古筆学の巨人・小松茂美で、書に関しては体系立っていた。なにより、出版人が本業に親和性の高いコレクションを築いた例は案外なく、ことさらに興味深い。
展示室のある地下へと降りていく大階段は黒色の石造りで、同じ黒石の壁面を、水がするすると被膜になって伝っていた。
突き当りには、統一新羅の巨大な仏頭がででんと鎮座。左右の展示室は黒を基調にシックにまとめられていて、暗闇のなかに浮かび上がるように行燈ケースが並んでいたのを覚えている。
ミュージアムショップも充実していて、古鏡をあしらったペンダントなど、しゃれたものだった。手に届きやすいものでいえば、所蔵品の絵はがき。50種ほどあっただろうか。その「全点セット」というおふざけのような商品すら用意されていた。
一度きりの来訪時に記帳をしたために、以来、お知らせのはがきが自宅に届くようになった。表面は宛名の下に次回の展示案内、裏面には所蔵品の写真といったもの。
年に1、2度、忘れた頃に届くこの便りを、わたしはひそかな楽しみとしていた。
ある日、歌仙絵の絵はがきが届いた。
センチュリーミュージアムの閉館と、移転準備のお知らせだった。
その時点では移転先・時期とも未定であったものの、追って届いた便りによれば鎌倉への移転がまとまったとのこと。裏面には、工事中の建物が写っていた。
ところがその後しばらく、センチュリーミュージアムからの音信は途絶えてしまったのである。(つづく)