聖像・仏像・彫像 柳宗悦が見た「彫刻」 /日本民藝館
「彫刻」といえば、人物や動物の像が、第一に思い浮かぶ。
愛玩用の人形でもないかぎり、これらは、なんらかの聖性を帯びた特別な存在の立体造形であると考えられる。
すなわち、神や仏、精霊を人間の姿によって表した人物像、オオカミのようにそれ自体がなんらかの畏怖・信仰の対象となったり、神や仏の眷属として、その存在を象徴・示唆する役割を担う動物像といったものである。
人物像には、生身の人間を造形化したものもある。聖人・高僧といった宗教者だけでなく、権力者や為政者が造形化されることもあるけれど、いずれにしても特別視・神格化の産物といえよう。
こうしてみると、なんらかの宗教的感情と分かちがたく結びついた造形が多いことに気づかされる。本展に出ていた像は、日本や朝鮮半島のものを中心に、洋の東西を問わず、ほとんどがこれに該当するものだった。
これらは、敬虔な信仰心に根ざして生み出された聖なる造形物であるいっぽう……技術的な面からみれば、けっして高度なものばかりではない。見馴れた仏像や神像とはかなり異なる「素朴」なお像も、なかには含まれていた。
こういった、俗に「民間仏」「民衆仏」と呼ばれる像を、本展では数多く拝見することができた。民藝館ならではといえよう。
ポスターやリーフレットのデザインは、木喰仏のソロ。民藝館の彫刻といえば、まずこれ。真打登場である。
なめらかで、つややか。円満な笑み……この手で触れて、撫でさすりたい衝動にかられる。
木喰仏には、頭や顔、手などに部分的な光沢のついたものがしばしばあり、じっさいに「撫で仏」として信仰されていたさまがうかがえる。
木喰も、そういった信仰のあり方を念頭に置いて、撫でたくなる親しみやすさ、撫で心地のよいなめらかさをもつお像をつくろうとしたのであろうか。
もし、触れることができたら、どんなにか気持ちがいいだろう?
想像は尽きないが、展示室で間近で観察してみて最も印象に残ったのは、彫りの深さや鋭さであった。
写真では、まるさ・なめらかさの印象が先立ってしまうけれど、彫り自体は力強く、厳しい。優しさと同居する激しさ、人間・木喰の息遣いに触れた気がした。
《陶俑 加彩舞楽女子》(唐時代・7世紀)。明器(めいき)、つまり墳墓の副葬品である。
顔貌の精緻な細工に比して、身体の表現にゆるいところがみられるのは、陶俑にかぎらず「東洋美術あるある」な気もするが、この腕の簡略さは……まるで、ラジオ体操でもしているようである。眉間に皺を寄せた、神妙な面持ちがよけいにシュール。
こうして袖を振り乱して舞う女性の俑が、もう2体いた。墓に眠る主は、死後の世界でも退屈することなく、楽しく過ごせたことだろう。
「拝む」「供える」ためのこういったお像のほかにも、彫ったり刻んだりといった要素をもつ造形は存在する。
三重塔を模した背の高いお厨子、達磨さんや三春人形の張子の木型、梵字を刻んだ版木、欄間彫刻、炉にかける木の自在……これらは、なにがしかの用途を担っていると同時に、彫刻的ともいえる。
展示室では、この種のものと人物像・動物像とが隔てることなく陳列されており、用の美すらも離れて、オブジェ的に捉えることができた。
——立体的な造形は、その場をたちまち変容させうる性質をもっていると思う。
たとえば自分の部屋に、人間の形をした置き物を新たに設置したとする。その存在の強さ、こちらに向けて絶えず注がれる目線・気配に、同じ空間でありながら、先ほどまでとは明らかに異質なものを感じとるはずだ。
本展の会場にも四方八方に多数の「目」があり、まさしく衆人環視の状況下での鑑賞となったわけだが、意外に威圧感や圧迫感はなかった。正直のところ、そういった感が多少なりともあるのではと思って、やってきたのだが……
これもひとえに、民藝館という空間の包容力であり、取り合わせの工夫があってこそかなと思われた。
多くが信仰をバックグラウンドとしたものながら、重さを感じさせない、造形に純粋に向き合えた鑑賞体験であった。
※本展は図録こそ出ていないが、「絵葉書集」ならば用意されている。15枚セット、作品解説の小冊子つきで770円也。制作コストは、図録の比ではないほど抑えられる。こんな手法もあるんだなぁと感心。
※作品はいずれも日本民藝館蔵。