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良寛の書の世界 ~清らかな書の成り立ち~:2 /東京黎明アートルーム

承前

 ふだんは陶磁器などが展示される1階最初の部屋には、丈の短い小品の軸物が主に掛かっていた。
 手前には、中国・日本の書の古典を版に起こしたお手本(法帖)を展示。良寛さんが学んだものと同じ版、またそれに近い版が平置きされており、壁に掛かる良寛さんの軸物と容易に見比べることができた。
 良寛さんの書は、なにものにもとらわれない融通無碍なありようこそが人びとを捉えて離さないのであり、とかく個性的・独自性の高いものとしてみられがちである。
 たしかに、「書は人なり」とはよくいったもので、そのなかでもとりわけて属人的というか、もうほんとうに、良寛さんその人でないと書けない字であろうなとは思われる。
 だが、そのオリジナリティを確立するまでの過程には、中国の書法や《秋萩帖》をはじめとする平安古筆などの熱心な手習いがあった。法帖を介して新たな先達に出合うたびに変化が加えられ、書風は刷新されていった。その結果としてあるのが、あの良寛さんの字である。
 良寛さんが古典からどのような影響を受け、どのようにみずからの書に活かしたのか——本展の1階メイン会場では、こういった点が視覚的につかみやすい形で示されていたのだった。


 同じく1階の奥と、2階ラウンジの茶室には、草書で詩文を書き連ねた押絵貼屏風を展開(次の引用は前者)。

 いきなり変なたとえで恐縮だが、こういった良寛さんの草書は、木の葉が方々に散っていく光景に似ている。点や線がはらはらと浮遊して、小刻みに動いているように、わたしの目には映るのだ。
 さらにいえば、映画「千と千尋の神隠し」で、主人公の名前が「千」の1字を除いて紙の上からひらりと浮き上がり、消え去ってしまう……あのシーンを、思い浮かべてしまう。
 この日も、文字というより、そういった筆による点や線のゆらめく姿として、草書の屏風を観たのであった。

 2階ラウンジの茶室では、通常、展示がおこなわれることはない。今回は草書の屏風1隻がガラスなしで露出展示されており、特別展らしいスペシャル感が横溢していた。
 いつもと違うのは会場のみならず、客層もまた然り。書道ファンらしき方が、ちらほら見受けられた。
 古美術の愛好家と書の愛好家というのは、意外に重複することが少ない。本展を機に初めてこの館にやってきたという人も、少なくないのではと思われた。

 古美術だろうと書だろうと、玄人ばかりが相手でもなく、この館は初学者に対してもいつもやさしい。
 毎回おなじみ・キャラクターを用いた解説パネルが今回も登板。良寛さんのほっこりエピソードを紹介する動画もとてもよかった(更新が滞っている公式YouTubeページにも、ぜひ上げてほしい)。
 作品解説にも、配慮がみられる。
 たとえば前回「親父の小言」的なものとして言及した《戒語》のキャプションには、WBCの栗山英樹監督がこの一節を『栗山ノート』に引用していたということが触れられていた。それは知らなんだ……良寛さんが、存外にタイムリーな存在であったとは……(野球だけに)。

 冗談はともかく、鑑賞者のほうへ積極的に歩み寄ろうとしてくれるこういった配慮が、この館の解説からはいつもうかがえて、うれしくなるのだ。

 展示は《戒語》を含む2階の2室分と、地下の1室分まで続いていく。

 まだまだご紹介したい作品はたくさんあるが、全体をとおしてみても、やっぱりこの作品がいちばん心に残った。《漢詩  草庵雪夜作》。

 帰り際、最初の展示室に戻ってぐるりと一周、《草庵雪夜作》をまたじっくり観てから館を辞した。

 ——「秘蔵のコレクション」にしては、出合える機会には割に恵まれてきた本展の出品作たち。またお目にかかる日を、楽しみにしている。


上野・不忍池



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