夭折の画家たち —青春群像—:2 /笠間日動美術館
(承前)
会場では、写真撮影が可能であった。
琴線に触れた作品をバシバシ撮らせてもらったので、お裾分けがてら、展示を振り返るとしたい。
佐伯祐三の《パリの街角》。荒れたマチエールと、勢いにまかせた乱暴なまでの線は佐伯の独壇場だ。
東京ステーションギャラリーでの回顧展が、あとひと月ほどで開会。がぜん、楽しみになってきた。
佐伯と同じく新宿区の下落合に住んだ中村彝。人物画のイメージが強く、風景画を意識したことはなかったが、この《風景》は好印象。朴訥とした趣すらある。彝本人も、風景画には自信があったとか。
享年20歳。出品作家中、最も若くして亡くなった関根正二。
《神の祈り》(福島県立美術館)には、一昨年の神奈川県立近代美術館での回顧展以来の再会となった。背景の青の、どこまでも深く、奥底の見えない色合いに引き込まれる。
代表作《信仰の悲しみ》(大原美術館)もそうであるが、神秘性を色濃く帯びたこの種の正二の絵は、つかみどころがなく意味深ではありながら、難解な寓意やメッセージ性の気配はふしぎと感じられない。であるからこそ、よけいに尻尾をつかめないし、魅かれるのだと思う。
松本竣介の青もよい。
《自画像》(岩手県立美術館)は、青い宝石のような小品。
ガラス越しの撮影とあって写真の再現性はいまひとつだが、顔や肌が青ざめているというよりは、画面全体に薄い青色のヴェールをかぶせたような、あるいは、水面をのぞきこんだときのような浮遊感のある青であった。
同じく竣介の《駅》(福島県立美術館)のスカイブルーは、手前の都市風景と鮮やかな対比をみせる。
このように、ブルーをラフな筆遣いで塗っていくことで、褐色の人工物のもつそこはかとない寂寥感が抑制され、ミニマルな愛嬌すら感じさせる画面となっているように、わたしには感じられた。
長谷川利行《墨田河畔の男の群れ》(個人蔵)は、わいわい、がやがや……と、男どもの下卑た談笑が聞こえてきそうな絵。
左上が隅田川と橋、男たちがいるのは隅田公園あたりだろうか。物見遊山の客たちか、労働者諸君か、絵からはわかりかねるが、御一行の活気が画面全体に伝播して、横溢するかのよう。
本展がおこなわれている笠間までは、常磐線を乗り継いでやってきた。
山手線の輪をはずれた常磐線が、あの三河島——利行が行き倒れたあたりに差し掛かったとき、わたしは確かに、利行のことを思った。
しかし、利行の《墨田河畔の男の群れ》にみえる屈託のない活気や明るさには、なんの関係もない。
いかに惨めな最期を遂げようと、そうかんたんに、遺された絵に投影させてはならないのではないか——「夭折の画家たち」と銘打った本展の、オーソドックスな見方には逆行するであろうが、そんなことを思いながらまっすぐに絵に向き合った、実り多い時間だった。
※「利行は明るい」といったことを書いた過去の投稿