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完全公開 巻物 八景十境:3 /文京ふるさと歴史館

承前

 フィールドワーク込みの美術鑑賞を試みるとき、悩ましい検討課題が「行ってから観るか/観てから行くか」ということ。
 社寺などの信仰上の聖地を描いた代物は、現地に行ったことがあるかどうかで受け取り方に大きな差が出てしまう。「違い」というよりは、もう「差」といってよい。前提となっている場所があり、そこに対する体験的な実感を持ち合わせていることが、目に見えないスタートラインとなるのだ。
 たとえば、京都の清水寺を描いた《清水寺参詣曼荼羅》。清水寺に行った経験が一度でもあれば、そのときの記憶と重ね合わせながら具体像を描けるだろう。行ったことがない場合と比べれば、実感の差は明白となる。
 こういったものは「行ってから観る」以外の選択肢は考えづらい。

 詩画巻《八景十境》を先に観るか、モチーフとなった「文京区立千駄木ふれあいの杜」に先に行くか。行きの電車でもまだ迷っていたが、結局《八景十境》を先に観ることにした。
 決め手となったのは、ふれあいの杜には、当時を偲ばせる要素があまり残っていないらしいこと。
 宅地開発によって、駒込別荘の面影はほぼ消滅している。むしろ《八景十境》の描写や展示の解説パネルのほうに、より多くの情報がつまっていそうだ。
 そのため今回は、あらかじめ知識を得てから、現地に行ってそれと符合しうるピースを捜索することにしようと決めたのだった。

 太田家の駒込別荘は、文京区千駄木1丁目のほぼ全域と隣接地を含む、広大な面積を占めていた。根津神社の裏手・日本医科大学と団子坂に挟まれた地区といえば、通じる人には通じるだろうか。鴎外ついで漱石が暮らした「猫の家」があったのも、駒込別荘の元敷地であった(現在は明治村へ移築)。
 地図で見ると、1丁目のブロックのちょうど中央部分に緑色のエリアがあるのがわかる。これが「文京区立千駄木ふれあいの杜」。自然の植生がそのまま生かされた、文字通りの「杜」になっていた。

石の祠

 確認できた範囲では、大名庭園の名残は石の祠や庭石くらい。大ぶりで特徴が感じられる祠も、《八景十境》には見当たらず。
 どちらかといえば、大名庭園になるさらに前、武蔵野の森林への回帰に重点が置かれている施設のようだった。

 それでも、千駄木1丁目を歩いているだけで、画巻のなかを散歩しているような気分を味わえたのも確かだった。
 なにより、画巻や地図を見ているだけでは想像しきれなかった、この界隈の高低差を体感できたのは大きな収穫だった。
 アップダウンの激しい谷根千一帯だが、ここ千駄木1丁目は、根津に近い南側から団子坂のある北側へ向かって、とりわけ大きな高低差がある。さらに、ふれあいの杜のあるあたりと東側の小学校とのあいだには急峻な断崖がそびえており、その高さは校舎の3階と同じほど。もちろん小学校の敷地も、もとは駒込別荘の一角だ。
 この地形を体感すればこそ、《八景十境》の本当の意味合いがわかる。
 富士山や筑波山といった「八景」が、この高い標高からならば、遮るものなどない壮大なパノラマとして遠望することができる。
 さらに、この高低差を利用して作庭することで、変化に富んだ見どころ「十境」が生まれた。そういったことが、とてもよく理解できたのであった。
 現地でしか得ることのできない情報というものは、どんなに時代や環境が変わろうと、確かにある。

 ちなみに、《八景十境》と「ふれあいの杜」の敷地を文京区に寄贈した掛川藩太田家の末裔・太田さんは、現在もこの周辺にお住まいだとか。千葉・市川からはじまった太田家をめぐる小さな旅は、太田家の家系と同じく、しっかり現代までつながった。


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