[館蔵]秋の優品展 桃山の華:2 /五島美術館
(承前)
桃山茶陶は、十二分に堪能できた。
《破袋》はいつ見ても破格。
この造形に対してはしばしば、人間の作為と、それをもってしてもコントロールのきかない自然の力とが融合した産物であると説明が加えられるが、はっきりいってここまで山疵(きず)が酷ければ、検品で弾かれ、物原に棄てられても致し方ない。
それくらいに破(や)れているものを、仕入れの商人や購入者の茶人がおもしろがって取り上げた。当時の陶工は現代のアーティストとは異なるから、こういったプロデューサー側からの指示があったのだろう。ひしゃげるような形にしなさい、灰の降りやすいところに置きなさい、どんな状態でもとりあえず出荷しなさい……
詳しいことはわからないが、こういった美を見いだし、受け容れることができた文化的な土壌にこそ、この時代のもつ凄みを感じるのである。
2つめの展示室に入る頃には日が傾きはじめ、窓際のケースに入った茶碗たちが、木漏れ日を浴びてきらめいていた。
初樂の赤と黒、とくに《夕暮》の変化に富んだ景色も印象深いが、わたしの目を釘づけにしたのは、自然光を受けた志野茶碗《梅が香》であった。
季節はもう秋。《梅が香》といえど意図して梅を表そうとしたものでもなし、自由に解釈させてもらうと、これは今のような秋の忍び寄る空気にはまことに似つかわしい。時間を忘れて、柚肌の変化する調子を眺めていた。
秋は夕暮れ。
長次郎の《夕暮》も、最初の展示室にあった光悦書・宗達下絵の《鹿下絵和歌巻》も、秋の情景を彷彿させ感慨深い。《夕暮》の口縁は金色に変色し、宗達は鹿を金泥で描いている。秋の色とはすなわち赤や黄系統の色であるが、そのどちらとも金色はよく調和する。「黄金のとき」桃山の豪奢には、ひそやかな秋の風に通づるものがある。
宗達の下絵に光悦がしたためたのは、新古今集の次の歌。
思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ 宮内卿
季節を感じる楽しみは、自然のみに見いだされるにあらず。本や美術館のなかにだって、ちゃんとある。
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