村上華岳・山口薫・北大路魯山人展:3/何必館・京都現代美術館
(承前)
「何必館・京都現代美術館」の原点は、一枚の絵だった。
村上華岳《太子樹下禅那図》(1938年=こちらのリンク最初の画像)。
オーナー・梶川芳友さんが22歳のとき、美術館の展示室で運命的な邂逅を果たし、画商の道を志すきっかけとなった作品。その17年後、ついに入手するに至る。
2階は華岳の展示室だったけれど、この作品だけは、かならず5階の床の間に掛けられる。
ビルの最上階、美しい苔庭の奥に控えるこの純和風の座敷は、《太子樹下禅那図》というたったひとつの絵のために設計され、華岳に向けて捧げられた空間なのだ。
※『和楽』より、苔庭と座敷。
何必館の外観は、石造りの荘厳な雰囲気。無骨とすらいえそうで、来る者を拒むというほどではないものの、かなり絞り込もうとしているなという印象を受ける。
そのような外観からはおよそ想像もつかない光景が、エレベーターの扉が開かれた瞬間、目の前に広がる。それが、上に挙げた苔庭の写真である。
苔庭には「光庭」という名がつけられている。
長方形の敷地の一部にこんもりと土盛りがされ、カエデの木が空に向かって伸びていく。天井は楕円にくり抜かれ、緑のじゅうたんに差す自然光もまた、楕円のスポットライトとなる。
苔は、いつ来てもおみごと。
京都には、苔のすばらしい庭がたくさんある。関東ではなかなか……というか、おそらく気候・風土的な理由から「絶対に」みられないであろう最上級の苔庭が、そこかしこにある。そのなかでも、何必館の「光庭」の苔はほんとうに美しいと思う。
※下のページには「光庭」の画像が多数掲載されている。
館内はおしなべて撮影禁止だったと思うが、ネット上には広報用とは思えない画像があふれている……撮りたくなる気持ちも、わからないではない。
じっさい、「光庭」の写真に魅かれてこの館を訪れる人は多いのだと思う。
わたしも「光庭」を拝見するのが楽しみではあるのだが、間違いたくないのは、これはあくまで「前庭」であり、部屋の本分としては、奥の座敷が主。
「光あふれる庭」とは、その奥の薄暗い、陰翳礼讃の座敷を最大限に引き立てるための舞台装置、前フリのような位置づけにすぎないのである。
写真・左奥は待合掛(まちあいがけ)、右奥は茶室、正面奥が広間になっている。
座敷を照らすのは、障子越しの外光。その向こうには自動車や人びとが行き交う祇園の通りが広がっているはずなのに、5階ともなれば、喧騒は届いてこない。左側の障子を開ければ、八坂神社が見える。とても静かな場所。
座敷に上がることは、できない。
床の間に掛かっている華岳《太子樹下禅那図》は薄暗く、距離としても遠いために、細部どころか全体像すら観察することが覚束ないのだが……これでいいのだと、思えてしまう。絵だけでなく、空間すべてを含めた鑑賞ができているからだ。
昨今、仏教美術の展覧会では「仏像を360度から、後ろ姿や裏側すら拝見できる」といった点を、ことさらにチャンスやメリットであるとして前面に押し出す広報やレビューがしばしば見受けられる。
これも、気持ちはわからないではない。むしろ、すごくよくわかる。
と同時に「……なんか違うような」とも感じる。
仏像は、信仰の場、お寺のお堂で拝見するのがいちばんいい。たとえ細部や別の角度からの姿が見られなくとも、そうに違いないのだと、わたしは思う。
何必館という、これ以上ない場を得た華岳《太子樹下禅那図》。この見せ方こそが、いちばんいいのだ。
「光庭」と座敷のあいだ、待合掛があるあたりの床は、特徴的な四角い石で敷き詰められている。石には無作為な釉薬の溶着がみられる。やきものを焼く窯を構成していた部材であろうか。
何必館でやきものといえば、北大路魯山人。魯山人窯の溶壁を利用したものかと思われた。オーナー・梶川さんの著作のどこかに、このあたりの話がきっと書かれているのだろう。
最上階からエレベーターで、今度は地階まで下がると、北大路魯山人の部屋。この行ったり来たりの動線も、梶川さんの掌の上といった感じがする。
魯山人の壺や鉢、大皿は、花や枝が活けられ、葉が添えられ、ときに水がたたえられ、いきいきと佇んでいた。魯山人は「使ううつわ」であるから、本来的なあり方に近づけられた姿といえる。
いっぽうで、料理。食のうつわに関しては、ぜひとも料理が盛りつけられた姿、なかんずく酒器ならば、美酒を含んだ姿をこそ観てみたいのだと、渇望が増幅してしまったのもまた然りである。
——研ぎ澄まされた “鑑賞空間の美” に、すっかりお腹いっぱいになって、館を出るのであった。
※地階の魯山人の展示では、古材の敷板も見どころ。
※何必館を擬似体験。文も写真もすばらしい一冊。