見出し画像

雰囲気のかたち―見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの:4 /うらわ美術館

承前

 本展のポスターの上半分は、横山大観《菜の花歌意》。下半分は、こちらの作品が飾った。

 鉄を素材とした造形で戦後の彫刻界をリードした若林奮(1936~2003)の《雰囲気》(1980〜2000年 WAKABAYASHI STUDIO)。タイトルから察せられるように、本展の最も核となる作品だ。
 若林は出品作家のなかでもやはり、核といえる。出品点数は最多の30点、全体の3割ほどを占めていた。
 図録のなかで、若林は次のような作家像として位置づけられている。

はっきりとは見ることも表すこともできない漠としたもの、空間を染め、特徴づけ、ある力が存在する場を、鋭敏な感覚で表そうとしていた作家

(図録7ページより)

 わたしたちが絵を観るとき、絵と1対1で向き合っているような感覚に陥りがちだ。
 物理的にはガラス板が間に挟まれていたりするものだが、そのガラスの存在すら意識の外にどかされるほど、鑑賞者は絵に集中力を注ぐ。自分と絵との境になにものをも介さない、一直線の間柄が築かれていると思いこんでいる。
 ところが、若林が重視するのは、人とものが対置されるときの「中間」の部分である。この空間はけっしてブランクなどではなく、じつは、目に見えない多くのもので満たされているというのだ。
 若林は、人とものとのあいだにある「雰囲気」の造形化と、そこいらの物差しでは測れない「距離」の再計測を試みた。
 本作《雰囲気》は、右にいる人物と、左にいる犬との関係性を表したものということになる。
 かたわらにあった《自分自身が目前の空間を測る為の模型 Ⅲ》(1979/1998年 神奈川県立近代美術館)も同種の作で、距離の計測という面では、こちらのほうがわかりやすい。センチメートルやインチといった既存の数理的な尺度とはまったく異質の距離感覚を、作者はもっていたのである。

 若林奮の彫刻は、はっきりいって、かなりむずかしい。
 上述のことがほんとうに適切かどうかすら、覚束ないけれども……理屈を脇に措いたとしても、その物体に接して素直な感興が湧き上がってくるのは疑いようがない。なんだかついつい気になってしまう、詩的でミニマルな魅力をたたえた造形物ばかりなのである。
 それに、想像の楽しみが大きいオブジェともいえよう。
 《雰囲気》の人と犬とは、結局、どんな関係性なのか?
 両者を大きく隔てる箱は、その表面に施された無数の点々は、なにを意味するのか?
 作品を前に、思いつきをあれこれ述べあうのも一興かと思われる。

 ——4回にわたってお送りしてきた、うらわ美術館「雰囲気のかたち」。展覧会は、ちょうど本日で閉幕となった。
 「見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの」の表現に、いまこの時代に着目する意義。それは企画者が述べていたように、ウイルスや情報、それに放射線といった、やはり肉眼では捉えられない存在が現世に跳梁跋扈していることにあるのだろう。
 実体のみえないものに、右往左往させられる人々。この状況下にあって、美術の立場からさまざまなアプローチの仕方を提示することは、現代を生きる「尺度」の選択肢を拡大する一助となりうる。
 若林奮が既存の物差しをよしとせず、みずからが物差しをつくりあげ、「見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの」を測りなおそうとした行為が、まさに象徴的であろう。
 会場をあとにして、なお大きな宿題をもらったような、浮揚感のある後味が残ったのだった。じつに充実した、豊かな鑑賞時間であった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?