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線表現の可能性 /国立国際美術館
大阪の中之島(なかのしま)には、美術館が密集している。
国内外の現代美術を展示する「国立国際美術館」、中国・朝鮮陶磁の世界的コレクションを収蔵する「大阪市立東洋陶磁美術館」の既存2館に加えて、近年は古美術の「中之島香雪美術館」、近現代美術の「大阪中之島美術館」が仲間入り。大阪市立美術館やあべのハルカス美術館がある天王寺界隈と並んで、関西におけるアートシーンの発信地となっている。
国立国際美術館「線表現の可能性」では、同館のコレクションをもとに、現代美術における多様な線表現をみていく。都市型美術館らしい夜間開館のタイミングを利用してうかがい、「線」に思いを馳せた。
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会場には1909年生まれの浜口陽三といった物故作家から、1978年生まれで現役の須藤由希子まで、線を用いた表現や、線質そのものに特徴が見出せる作品が並んでいた。
最初の1点は、まさに「線の作家」といえそうな描き手、サイ・トゥオンブリーの《マグダでの10日の待機》(1963年)。
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その隣に掛かっていた、エミリー・カーメ・ウングワレーの大きな作品(1995年)もよかった。近年注目を浴びる、アボリジニ・アートの重要作家である。こちらも、「線表現の可能性」というテーマにはまことにふさわしい。
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ミミズがのたうちまわった跡のようでいて、なにか規則性や、下手すれば具象性もあるのかもと思わせる。
作品名は……《ヤム(ヤムイモ)》。ヤムイモといえば、彼らの主食。日本人がご飯を描くようなものか(?)。
この絵はヤムイモの粘り気を表現しているのだろうとか、あれこれ考えをめぐらすことはできようが、ひとつの線表現として観て、たいへんおもしろい。思わず目で追い、なぞってみたくなる線というのは、やはり「いい線」であろう。
本展の序盤には、こういったプリミティブな性格を帯びた線表現が集中的に取り上げられており、興味をひかれた。
木村忠太《南仏の六月》(1980年)。気になっていた作家ではあるけれど、こんなにプリミティブ寄りの作風もあるのか。カラリストとしての面も盛り込まれ、魅力的な絵。
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先ほど、本展の最年少作家として名前を出した須藤由希子は、きわめて平面的に、モノクロームで、なんてことはないありふれた風景を描く。
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こうなると、もはやほとんどマンガの背景画と変わらないし、そのことは作家も意図していることだろう。
そして、その上からいかなる登場人物も描き足されていない「不在」の奇妙さを、鑑賞者は感じずにはいられない。無機質な空気を形づくるのは、いうまでもなく線である。
いったい、どうしたというのだろう……観る者を、思索へと誘う絵だと思った。
なにか具体的なかたちを表すためではなく、純粋に線を主たる構成要素とした作品にも、魅力的なものが多々。
李禹煥《無題》(1979年)。一見、無造作とも思える線でありながら、単なる反復とは異なり、一本一本が違った生きもののよう。なにか音楽的な動き、胎動といったものを感じさせる。
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本展のリーフレットに起用されたベルナール・フリズの《ガルブ》(2007年)。
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「線表現」というよりは「色彩表現」のほうが目に入りやすいけれど、安定よく、ゆらぎなく、しかし鋭利ではなく穏やかに引かれていく線が、色彩のかもす作品全体の明るさを下支えしているのだと思われる。しゃれているなぁ。
ゲルハルト・リヒター《STRIP (926-6)》(2012年)と山田正亮《WORK C.96》(1961年)の、ふたつのストライプが横並びになった壁。
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フリーハンド感のにじむ縦位置の山田の作品と、デジタル写真の「処理」によって生まれた横位置のリヒターの作品。大きさも違う。
「似ても似つかない」といわれればそうなのかもしれないが、この壁においては白壁の間隙を超えて横しまがつながり、呼応して広がっていくかのような効果すら感じさせた。
むろんこれは、作家の意図とは無関係な、鑑賞者による勝手な視覚的「遊び」にすぎないものの、図録では味わえない、会場ゆえの愉しみと捉えることもできよう。
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本展のさらなる特徴として、タブローのための準備段階として参考的な扱いにとどめられがちな素描の類が、積極的に取り上げられている点が挙げられよう。素描には、タブロー以上にいきいきとした線が表れていることも多い。
なかでも興味深かったのは、彫刻家・植松奎二による素描と、完成した彫刻作品。
立体の構想を練る作家が、線の力を借りて、それをどのように具現化していったのか——そのプロセスの一端が、複数の素描により明らかにする展示となっていた。
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多様な線表現を通観することで、線表現の無限といえる可能性を点検する本展。ひとつ上の地下2階で催されるコレクション展「彼女の肖像」とともに、あす26日まで開催。
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