日本の風景を描く ―歌川広重から田渕俊夫まで―:3 /山種美術館
(承前)
ようやく、近代日本画の話に入るとしたい。横山大観の《喜撰山》から。
喜撰山とは京都・宇治にある山で、百人一首の歌人・喜撰法師が棲んだとされることからその名がある。
大観の作品もこの歌を絵画化したものといえるが、そもそも喜撰法師という人物については、この歌と、宇治に住んだということくらいしかわかっていないらしい。
歌のなかで当人は「人はいふなり」とのたまうけれど、否定もしていない。俗世間を「憂し」ものとして、隠遁の志をもって宇治の山に分け入った部分もあった……というか、そうであったに違いない。「図星」だったのであろう。
喜撰法師の意を汲んでか、山また山、一度入ったら引き返しがたいような山中の風景として、大観は喜撰山を描いている。
そのスケール感は、幅158センチの大横物(おおよこもの)という体裁によって、ことさらに強く印象づけられる。絵の前に立つと、まさしく「山懐に抱かれる」錯覚を得たのだ。
錯覚を助けたのは緑青の鮮やかさであり、塗りつぶしとは異なる繊細な木々の塗り分けである。上の引用にある赤土の表現の工夫も、こちらに向けて迫ってくる山容の息吹をよく演出していた。
翻って、川合玉堂《早乙女》には、特定の歌意はない。
玉堂が描きだした絵画世界の多くは、その気になれば当時どこにでも見つけられたような山村の景色であり、少しばかり前の時代へ向けたノスタルジーともいえた。早乙女の田植えというこの絵の情景も、じつにとりとめのない、普遍的な農村風景といえよう。
畦道の抽象性は、17世紀の古九谷の皿など、とくに工芸の分野でいち早く発見・造形化された。本作においても「たらしこみ」の線によって、絵づくりのアウトラインとして遺憾なく活用されている。
早乙女が田植えに励むからこそ、稲の生える田ができていく——そんな当たり前の「過程の情景」を、玉堂はすがすがしく筆に残した。
横山操《越路十景》は、故郷・新潟を描いた10点のシリーズ。
中国・洞庭湖畔の「瀟湘八景」を踏まえて、日本ではさまざまなローカル絶景の名数が生まれた。その代表が琵琶湖畔の「近江八景」。横浜には「金沢八景」があった。風景は見る影もないが、駅名や八景島にその名を残している。
横山操は「八景」にふたつ足して「十景」としているが、うち8作はやはり、瀟湘八景を意識している。
越後路を旅したことは数えるほどしかないが、穀倉地帯の越後平野がまっすぐに、縹渺たる日本海へと繋がっていく、空の高さを感じさせるあの雰囲気がたしかに、ここに絵画として凍結されているなと思われた。操と故郷を同じくする方ならば、郷愁を誘われるに違いないだろう。
中国の瀟湘八景の残像を遠くに置きながら、操は越後の風物から10の景を新たに選び、連作とした。
操の十景に、演出感や「よそゆき」の感はない。おそらく、その土地から出た者だからこそ、的確に捕捉できた感触なのではないか。
ありのままの「日本の風景を描く」絵が、そこにはあった。(つづく)
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