『おふくろが呆けました』〜あとがき
一度目の転倒事故の後、おふくろが心配なこともあり、異動の希望先をおふくろの家の近くにして提出しました。どうにか希望が通り翌年4月からは非常勤教員としておふくろの自宅から徒歩数分の勤務場所に異動する事が出来たのです。
それからというもの休憩時間や退勤時間後には出来るだけ顔を出すようにし、おふくろの様子を見に行くようにしました。考えてみれば現役の時代ではとてもこのような対応は出来なかったでしょう。役職もあり日々仕事に追いたてられる毎日、とても仕事以外のことを考える余裕はありませんでした。定年というちょうど一区切りがついたところからおふくろとの対応が始まったということでは、一つの運命だったのかとも考えてしまいます。
私が行くとおふくろはいつも窓から外を眺めています。私が来るのも待っていたのでしょう。そして、本文にも書いてありますが認知症が進行してきてからは、毎日押入れの前に座り、押入れの中に入っている衣類、小物などを整理しているのか片づけているのか、とにかく毎日行くたびに押入れの前にいるのです。結局荷物を出し入れしながら何をどこに入れたのか、しまったのか、忘れてしまうので、物がなくなってしまいます。私が新しく買った衣服を押入れの中のタンスにしまっておいても、次に見るとありません。ショートステイに行くときなどに用意をしようと入れておいたタンスを開けてみると、見つかりません。おふくろに聞いても知らないの一点張り、仕方がないので再度新しいものを購入するの繰り返しで、新しく購入した大量の衣類がこの部屋のどこかにあると思いながらこっそり探すと、あちらこちらから出てくる、出てくる。先日買ったもの、その前に買ったものなど、そんなことの繰り返しの毎日でした。
押入れの前での片づけは朝からやっているようで私が顔を出すたびに「疲れた、疲れた。片づけるものが山のようで疲れたよ。」口癖のように話していたものです。実際は押入れの中の物を、右から左へ、上から下へ、たんすからたんすへと一日中移動させているだけなのです。主治医の話では認知症特有の常同行動とのことです。考えてみればこの行動はずいぶん前から見られていました。今から思えばあの時に何か手を打つことがあったのではないかと後悔をしています。
おふくろが「帰りたい、帰りたい」と言っている家に私はいつでも自由に帰れます。誰もいない部屋に入ると窓から外を眺めているおふくろを思い出すのです。押入れの前で片づけをしているおふくろを思い出すのです。あんなことも、こんなことも、あんな話も、こんな話もいろいろなことを思い出し心が苦しく、辛くなってきます。おふくろがいないこの家は本当に寂しいです。
10数年前は親父がいて、二人の兄貴がいて、弟がいて本当ににぎやかな家でした。今は誰もいません、シーンとしたこの家にいるだけで寂しさを強く、強く感じます。仏壇を開けて親父に手を合わせます。「親不孝な息子でごめん、おふくろに辛い思いをさせてごめん。でもいつも、いつもおふくろの事を思っているんだよっておふくろがそっちに行ったら伝えてください。」そんなことを思いながら手を合わせています。
テレビドラマやニュース報道などで認知症の親を介護するシーンを見るにつけおふくろを思い出し、自分の不甲斐なさに自己嫌悪に陥ります。今まで感じたことはなかったのですが、最近では街で高齢の女性が一人で杖をついてとぼとぼ歩いている姿を見るにつけ、おふくろを思い出します。「頑張れ!頑張れ!」と心の中で応援をしてしまいます。自分の足で歩くという事はすごい事です。一人で生きていけるというのは本当にすごい事です。
本書を読んでいかがでしたか。読んでいて何故私一人が動いているのか、二人の兄が全く文中に出てこないことに疑問を感じた方もいるのではないでしょうか。実は親父が亡くなり葬儀もすべて終了した翌日に長男が倒れてしまい、長い入院生活を送っているのです。そして次兄は、長年勤めあげた職場を定年退職した後に体調を崩し入院、退院を繰り返してしまい、今は自宅療養の日々を送っています。そんな訳で今回のおふくろについては、私しか動くことが出来ない状況だったのです。兄弟四人で対応できていれば、また違う方法もあったのかもしれません。文中にも書きましたが、人生本当に思うようにいきません。いろいろなことが複雑に絡み合って今があるのでしょう。だからこそ備えが必要なのではないでしょうか。
今、まさに私と同じような境遇の人がいたとしたらこれだけは伝えたいと思います。人は年をとります。肉体は確実に老いていきます。親のことでも、自分自身のことでも同じだと思いますが、先を見越して今できることは何があるのか、そんな事を考えるのに遅いということはありません。いろいろなパターンを想定して、今から動けるものには何があるのかを考える事は、大切なことだと思います。そして一番大切なことは今後についてどうするか、しっかりと意思の確認をとることだと思います。特に認知症は記憶が薄れていきます。まだ判断ができている時に意思の確認が取れていたら、その時の行動に迷いは少なくなると思います。
私は母親を見て、自分の老後は自分で決めたいと思っています。まだまだ考える力は衰えていないと思っている段階で、自分の将来は自分で決めたいと思っています。私が体験した事を自分の子供たちにはさせたくありません。私に残された時間があとどのくらいあるのか分かりませんが、今、何ができるかを常に考え生きたいと思っています。