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谷崎潤一郎の『春の海邊』を読む  もう何をしたつて安心さ

 谷崎潤一郎の『春の海邊』は、工学士・三枝春雄の妻・梅子が文学士・吉川清と姦通していることが露見する話である。いや、露見したようでありながら、そのことがうやむやなまま、何もなかったかのように閉じられる三幕の芝居である。露見したように思われるのは二幕、いや何がなされていたと明確に言葉になっていないので露見と云いうより疑惑か。その疑惑が三幕ではすっかり打ち消されてしまう。

春雄 いえ、實は赤坂邊へ借家を搜しに行つたんです。雪子まあ、氣が早いつたらないね。まだ半月は此處に居たつていゝぢやないか。春雄僕はどつちでもいゝんですが、梅子が馬鹿に東京へ歸りたがつて居るんです。(谷崎潤一郎『春の海邊』)

 …と、梅子が借家を探している場所が赤坂あたりであることと、二人きりの時に梅子が吉川に言う台詞から、関係が疑われる。

梅子 やつばり赤坂か、麴町邊になさいましな。
吉川 えゝさうしませう。ところで明日三枝君は東京へ行くんですか。
梅子 お天氣さへ好ければ屹度行くわ。是非行くやうにさう云つたんですもの。
吉川 日歸りですか、それとも一晩泊るんですか。
梅子 まだハツキリ極まつて居ないんですの。久し振で赤坂へ行くんですから、泊らないとしても歸りはどうせ遲くなるわ

春雄は立聽きしながら、俄に昂奮して恐怖に充ちた眼を光らせる。

吉川 立つのは何時の汽車でせう。
梅子 千代子さんと一緒だから、大概午前中よ。
吉川そんなら僕は、明日の朝早く伺ひますよ。さうして停車場まで送つて行かう。
梅子 あたしは內に待つて居ますから。(谷崎潤一郎『春の海邊』)

 春雄が東京に立つのを見届けようという吉川、内で待っているという梅子。清という名前ながら、吉川にはやはり姦通の匂いがする。では何故この疑惑はなきものにされるのか。ここにはまた谷崎独特のロジックが現れる。

   梅子が「身に覺えのない事なら、用心する必要なんかありやしないわ。」というのに対して、春雄は「そりや勿論の話だが、疚しい所がないだけに、却つて遠慮が無さ過ぎて、飛んだ誤解を受ける事があるよ。」と返す。そして、

春雄 そりや勿論の話だが、疚しい所がないだけに、却つて遠慮が無さ過ぎて、飛んだ誤解を受ける事があるよ。その上先方は苦しまぎれにどんな難癖を附けないとも限らないからね。
梅子 それ御覽なさいな。だからやつぱり吉川さんを寄せ附けない方がいゝんでせう。
春雄 いやいやさう云ふ譯ぢやないんだよ。唯二三日の間、先方が手を引いて了ふまで、少し控目にしてくれゝばいゝんだ。なあに其の人さへ遠退いたら、もう何をしたつて安心さ。(立ち上る)
梅子 あの人はあたしを目の敵にして居るんだわね。
春雄 お前もあまり取り合はない方がいゝよ。さあ、歸らう。

兩人砂山を上り行く。
上手松林の中より忍び足に千代子が現れる。砂山の彼方に隱れ行く兩人の姿を見送りながら、默然として舞臺の中央に立つ。


(谷崎潤一郎『春の海邊』)

 これが第二幕の結びである。春雄の云う「其の人」とは梅子と吉川の関係を密告した妹の千代子である。つまり春雄は妻の梅子に対して、妹が東京に帰ってしまえば、もう何をしたつて安心さ、と言っているのだ。つまり、妻・梅子の不倫は、観察者千代子の存在なしでは存在しえない、妹に気とられなければ、吉川と不倫しても構わないと言っているのだ。
 この会話を聞いた千代子はその夜東京に帰ることにする。しかも自分を馬鹿な人間で、兄は滅多にいない幸せな人間だという。

千代子 あたしの無分別な了見から、餘計なおしやべりをして、たとへ半日でも兄さんに御心配を掛けたのが申譯がないと思ひますわ。あたしはもう何も疑がつて居やしなくつてよ。あなた方のお話を聽いて見ると、いくら證據を摑まうとしたつて、摑める筈がないんですもの。ねえ兄さん、ほんとに勘忍して下さいまし。お互ひに笑つて別れませうよ。(谷崎潤一郎『春の海邊』)

 この千代子の台詞が皮肉以外のどのような意味を持ちうるのかと考えてみると、シェイクスピア劇の「立ち聞きの誤解」のようなものが考えられるだろうか。皮肉なら、どこかに棘が見えてもいい。

春雄 聽かれたら仕樣がないが、あれは全く僕の眞情なのだ。どうか惡く思はないでくれ。
千代子 惡く思ふ理由がないぢやありませんか。妹の癖に今迄兄さんの眞情をお察しする事が出來なかつたのが、惡いのよ。兄さんはほんとに仕合せな方だわ。兄さん程幸福な方はめつたにないわ。
春雄 さうさ、お前の云ふ通りだよ。
千代子 あたしの無分別な了見から、餘計なおしやべりをして、たとへ半日でも兄さんに御心配を掛けたのが申譯がないと思ひますわ。あたしはもう何も疑がつて居やしなくつてよ。(谷崎潤一郎『春の海邊』)

 原文では「めつた」には傍点が振られている。これが棘かと思えば、「あたしの無分別な了見」と來る。皮肉なら、こんな言葉は出てこないだろう。ここはやはり「立ち聞きの誤解」から、三千子が春雄と梅子の夫婦の結びつきを信じて謝罪したと見做すべきだろうか。なるほど勧善懲悪とはならない芝居だ、とは近代文学1.0でも言われてきたかもしれないので、少しぎろりとした指摘をしておこう。

靜子 (雪子と共に春雄の後ろへ歩み寄る)お祖母樣、お父さんはお化粧をして居らつしやるのよ。
雪子 ほんとにをかしなお父樣だ事。お前のお父樣は、暇さへあれば每日鏡を見て居るんだよ。(谷崎潤一郎『春の海邊』)

 どうしたわけか『春の海邊』はこう始まる。また女装趣味かと思わせておいて、直ぐにそうではないことが解る。

雪子 每日每日鏡を覗詰めて、自分の血色を氣にする人があるもんですか。春雄 なあに、別に氣にして居る譯ぢやありません。一體僕は昔から鏡を見るのが好きなんです。退屈すると鏡を見て居るのが一番面白うござんす。(谷崎潤一郎『春の海邊』)

 数行のうちに「女装趣味?」「健康管理?」「ナルシスト?」と鏡を見ることの意味がするするするっと変化する。このようにして何か一つのふるまいがいかようにも意味を変えられることが冒頭で示されてこその、誤解落ちなのだろう。
 また千代子の云う「いくら證據を摑まうとしたつて、摑める筈がないんですもの」という台詞は、「萬一誰か知ら事実の真相を観破したところで、世間は二人の「芝居」を嘲り、「幻影」を罵る権威を持たない。」という『捨てられる迄』のロジックをなぞっているのだろう。

 それはつまり、春雄が梅子を信じ続ける芝居を続ける限り、千代子はその幻影を罵る権威を持たないという理屈になる。千代子が単なる誤解のまま去ったのか、それとも芝居を続ける兄を不憫に思い、いたたまれなくなったので去ったのか、という判断は読者に委ねられている。默然として舞臺の中央に立つ千代子の芝居の演出でその答えはいずれかに決まるだろう。「もう何をしたつて安心さ、」と立ち聞きしての夜の出立を根拠に、私は後者の解釈に立つ。

「今に己達は皆山口のやうになつてしまふんだ。失戀した者の運命は誰も彼も同じ事だ。」ふとさう思つて、橘は默然として相手の顏を視詰めて居た。(谷崎潤一郎『羹』)

己が借金を申し込みに行くと、最初の五六回は氣持ちよく貸してくれたのに、だんだん手數が面倒になつて、しまひには二人共、默然として睨み合つて居るやうな光景が屢々演ぜられた。(谷崎潤一郎『前科者』)

行者は、自分の祈願の由來を、弟子に述べさせて居る間、始終默然として、落ち窪んだ眼窩の奧から、胡散臭い、物凄い瞳をぎらぎらと光らせてゐた。(谷崎潤一郎『玄奘三蔵』)

靑年は二人が相對して居るデスクから二三步手前まで進んで來て、そこでぴたりと立ち止つたまま暫らく默然として此方を脱み返して居た。「お前は誰だね、何の用があつて此處へ來たんだね。」(谷崎潤一郎『柳湯の事件』)

兄弟は、それでも病人が生きて居るのを不思議に感じつつ、紫色になつた父の顏色を、車の停るまで默然として凝視して居た。(谷崎潤一郎『兄弟』)

 このように谷崎の語彙における「黙然として」は多く受け入れがたきもの、疑わしきもの、承服しかねるものに対して向けられる態度であった。何かが腑に落ちてのものではない。ただ黙っている状態を表してはいない。判断をゆだねられた読者は何でも好き勝手に解釈してよいわけではない。ある程度作者のコードに寄り添わなくては、文学はたちまち糞みその世界に堕ちてしまう。



【余談①】谷崎潤一郎はどうも賺す

 谷崎潤一郎はどうも賺す。主題を置き忘れるし、余計なふりを拵え、どうでもいいところでつまらないことをわざと間違う。本作においても春雄がナルシストであることは主題と絡まない。つまりさしたる意味も結ばない。はどこへ行ったの? とついつい考えてしまう。
 解る人います?
 ここからは全くの与太話だが、明日論じる予定の『饒太郎』の主人公の名前が泉饒太郎という売り出し中の作家なので、すわ泉花との関係は……と気になるところ。作中では冗談で「文豪泉君」と揶揄われるので、二十八歳の谷崎潤一郎ばかりがモデルとも片付けにくい。
 泉鏡花は大正二年に『夜叉ケ池』を発表していて全盛期の大先輩、ただし谷崎と知り合いになるのは大正九年というから当時の文壇は付き合いが薄かったのか、それとも引き合わせられない何かがあったのか……。
 泉鏡花といえば尾崎紅葉門下、田岡嶺雲、永井荷風の好評を以て文壇に地位を築いた。谷崎潤一郎も『刺青』を永井荷風に激賞されてのし上がったようなところがあり、永井荷風の引き合わせはなかったのかなと不思議なところ。それにそもそも谷崎潤一郎は在学中和辻哲郎らと第二次『新思潮』を創刊していたのに、夏目漱石との関係も見えない。
 とりあえず泉饒太郎という名前も謎、泉鏡花との関係は見えない。
 つまりやはり賺しなのである。




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