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芥川龍之介の『地獄変』をどう読むか① 物事はどちらか一方の意思のみで動いていくわけではない 

 私はこれまで誤読は、

①書いてあることを読まない

②書かれていないことを付け足す

 ……というパターンから生じるとして、できるだけ外部から余計なものを持ち込まず、まず丁寧に「読む」ことに徹し、「近代的自我は……」と大上段から「難しそうな話」をこねくり回さないように書いてきました。何が書かれているのか、あらすじさえもつかめていないのに、「難解な理論の不安定な結論」(Ⓒ飯田泰之)を駆使するのはみっともないと思うからです。

 今回は芥川龍之介の『地獄変』をやります。

「その車の中には、一人のあでやかな上﨟が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでゐるのでございまする。顔は煙に烟むせびながら、眉を顰めて、空ざまに車蓋を仰いで居りませう。手は下簾を引きちぎつて、降りかゝる火の粉の雨を防がうとしてゐるかも知れませぬ。さうしてそのまはりには、怪しげな鷙鳥が十羽となく、二十羽となく、嘴を鳴らして紛々と飛び繞つてゐるのでございまする。――あゝ、それが、その牛車の中の上﨟が、どうしても私には描けませぬ。」
「さうして――どうぢや。」
 大殿様はどう云ふ訳か、妙に悦ばしさうな御気色で、かう良秀を御促しになりました。が、良秀は例の赤い唇を熱でも出た時のやうに震はせながら、夢を見てゐるのかと思ふ調子で、
「それが私には描けませぬ。」と、もう一度繰返しましたが、突然噛みつくやうな勢ひになつて、
「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見てゐる前で、火をかけて頂きたうございまする。さうしてもし出来まするならば――
 大殿様は御顔を暗くなすつたと思ふと、突然けたたましく御笑ひになりました。さうしてその御笑ひ声に息をつまらせながら、仰有いますには、
「おゝ、万事その方が申す通りに致して遣はさう。出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰ぢや。
 私はその御言を伺ひますと、虫の知らせか、何となく凄じい気が致しました。実際又大殿様の御容子も、御口の端には白く泡がたまつて居りますし、御眉のあたりにはびく/\と電が走つて居りますし、まるで良秀のもの狂ひに御染みなすつたのかと思ふ程、唯ならなかつたのでございます。それがちよいと言を御切りになると、すぐ又何かが爆はぜたやうな勢ひで、止め度なく喉を鳴らして御笑ひになりながら、
「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上﨟の装ひをさせて乗せて遣はさう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死をする――それを描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ。」
 大殿様の御言葉を聞きますと、良秀は急に色を失つて喘ぐやうに唯、唇ばかり動して居りましたが、やがて体中の筋が緩んだやうに、べたりと畳へ両手をつくと、
難有い仕合でございまする。」と、聞えるか聞えないかわからない程低い声で、丁寧に御礼を申し上げました。これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで来たからでございませうか。私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、気の毒な人間に思はれました。(芥川龍之介『地獄変』)

 少し長い引用になりましたが、ここで考えてみたいのは「さうしてもし出来まするならば――」→「出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰ぢや」→「その中にはあでやかな女を一人、上﨟の装ひをさせて乗せて遣はさう」→「難有い仕合でございまする」という会話を語り手が、「これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで来たからでございませうか」と総括していることをどう受け止めるのか、ということです。

 つまり良秀は大殿様に女を焼いてくれと頼んだのかという問題です。無論弁護側は「皆迄は言っていない。勝手に解釈されて断る勇気がなかっただけ」と主張し、検察側は「大殿様に言わせて感謝したからには殺意は明白」と主張するでしょう。

 私はここは話者の総括が見事だと思いますね。例えば晩御飯にカキフライと松茸ご飯を食べよう、と考えたら、そのくらいはできますよね。ただ三億円あったら何をする、と考えても実際にはないので、その考えたことというのはさして現実感はないわけですよね。「これがあったら」「これができたら」と壁の前で考えていて、急に壁が無くなったら、考えていたことの意味合いが本質的に変わってきます。

 しかしこれは大殿様が「出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰ぢや」という権力を振り回したのが悪いという話でも無いと思うのです。誰が悪いという話ではなく人間関係では物事はどちらか一方の意思のみで動いていくわけではないということです。良秀は大殿様に女を焼いてくれと頼んだのか、と言えば「明言はしていない」→「ただし大殿様はその意を察して女を一人焼くことにした」わけですよね。「その意」というのは「その牛車の中の上﨟が、どうしても私には描けませぬ」という表現に表れています。

 良秀は焼ける牛車ではなく悶え苦しんでゐるの顔が見たいのです。

 そう解釈した大殿様は「その中にはあでやかな女を一人、上﨟の装ひをさせて乗せて遣はさう」と云ったのか、云わされたのか? ここはまさに中動態の世界じゃないですかね。

 少なくとも「さうしてもし出来まするならば――」を切り捨ててしまえば、その後の良秀の驚きと苦しみが解らなくなります。







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