芥川龍之介の『地獄変』をどう読むか① 物事はどちらか一方の意思のみで動いていくわけではない
私はこれまで誤読は、
①書いてあることを読まない
②書かれていないことを付け足す
……というパターンから生じるとして、できるだけ外部から余計なものを持ち込まず、まず丁寧に「読む」ことに徹し、「近代的自我は……」と大上段から「難しそうな話」をこねくり回さないように書いてきました。何が書かれているのか、あらすじさえもつかめていないのに、「難解な理論の不安定な結論」(Ⓒ飯田泰之)を駆使するのはみっともないと思うからです。
今回は芥川龍之介の『地獄変』をやります。
少し長い引用になりましたが、ここで考えてみたいのは「さうしてもし出来まするならば――」→「出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰ぢや」→「その中にはあでやかな女を一人、上﨟の装ひをさせて乗せて遣はさう」→「難有い仕合でございまする」という会話を語り手が、「これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで来たからでございませうか」と総括していることをどう受け止めるのか、ということです。
つまり良秀は大殿様に女を焼いてくれと頼んだのかという問題です。無論弁護側は「皆迄は言っていない。勝手に解釈されて断る勇気がなかっただけ」と主張し、検察側は「大殿様に言わせて感謝したからには殺意は明白」と主張するでしょう。
私はここは話者の総括が見事だと思いますね。例えば晩御飯にカキフライと松茸ご飯を食べよう、と考えたら、そのくらいはできますよね。ただ三億円あったら何をする、と考えても実際にはないので、その考えたことというのはさして現実感はないわけですよね。「これがあったら」「これができたら」と壁の前で考えていて、急に壁が無くなったら、考えていたことの意味合いが本質的に変わってきます。
しかしこれは大殿様が「出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰ぢや」という権力を振り回したのが悪いという話でも無いと思うのです。誰が悪いという話ではなく人間関係では物事はどちらか一方の意思のみで動いていくわけではないということです。良秀は大殿様に女を焼いてくれと頼んだのか、と言えば「明言はしていない」→「ただし大殿様はその意を察して女を一人焼くことにした」わけですよね。「その意」というのは「その牛車の中の上﨟が、どうしても私には描けませぬ」という表現に表れています。
良秀は焼ける牛車ではなく悶え苦しんでゐる女の顔が見たいのです。
そう解釈した大殿様は「その中にはあでやかな女を一人、上﨟の装ひをさせて乗せて遣はさう」と云ったのか、云わされたのか? ここはまさに中動態の世界じゃないですかね。
少なくとも「さうしてもし出来まするならば――」を切り捨ててしまえば、その後の良秀の驚きと苦しみが解らなくなります。
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