志賀直哉が「小説の神様」で、後に横光利一が「小説の神様」になり、横光の影が薄れて志賀直哉が再び「小説の神様」として認知されるようになったという話を書いた。
ところで「文学の神様」というものもいて、この「小説の神様」との関係はややこしい。
まず「学問の神様」こと天神様、菅原道真が「学問の神様」ではなく「文学の神様」と呼ばれることがあった。
しかしここにまた横光利一が出てきて「文学の神様」と呼ばれてしまうのだ。
ここではそれが誰とは言われていないが、言われるまでもなくこれは横光利一のことであろう。
これも誰とは書かれていない。
書かれてはいないがどうも横光利一である。書かれていないのにどうして横光利一だと決めつけるのかと云えば、どうもほかに思い当たらないからである。
こうして安吾に名指しされる「文学の神様」は志賀直哉である。ちなみにこの本の中で安吾は谷崎潤一郎や佐藤春夫、芥川龍之介には言及するが横光には言及していない。
などと書いていたのは昭和十年三月。
これも昭和十年。
この初出は昭和二十一年十月。その後横光には言及していないのではなかろうか。
こんな『花田清輝論』をみるとその理由が解らないでもないような気がして来る。
そして思う。「文学の神様」などが埋もれているようでは話にならない。
[余談]
国立国会図書館デジタルライブラリーでは「花田清輝」は蔵書目録の中にしかない。……つまり、処分されたか。
これでいいのか?
デジタルコレクションでも作品そのものは見当たらない。
これでいいのか?
館内限定が多いな。
これでいいのか?