芥川龍之介の『葱』をどう読むか① 「何しろ」「とにかく」「とか何とか」
作家が小説を書くこと、アマチュアが処女作を書くのではなく、プロの作家が依頼原稿を現に書くこと、その枠組みを明らかにして書くこと、書いたうえで、それがいかにもサイズ的には小品であることを承知しながら、話に落ちをつけ、そしてさしたる満足感もなく筆を置いたことまで書き、なんなら批評家のことまで意識していることを明示するのは……太宰治に伝承されたかと思えるほどの太宰節の原型であり、何某かの意匠と思える。
太宰節だけ眺めれば、それは太宰のだらしなさ、やる気のなさ、いい加減さと自尊心、虚栄と嘆きの入り混じった如何にも太宰の人間臭さの表れであるかのようにさえ感じられる。これは単純に「自己戯画化」とも言われ、作中にみっともない自分、「苦労して小品を書いてさえ挫折する作家」を描いたものと考えられている。
一方『羅生門』や『地獄変』などのいわばスタイリッシュ(スタイリスティック)な作品が売りの芥川龍之介に、『葱』のような作品があることの意味はこれまでさして真面にとりあげられてこなかったのではなかろうか。
三島由紀夫には最後までこれが出来なかった。いや三島由紀夫がユーモアを獲得した作品として意義ある『命売ります』にはそういうものが出かかったが、三島は飽くまでも形式に囚われた。そうみればまさに『葱』は崩しであり、破調であることが明かだろう。
今、新人作家がベテラン編集者にこの原稿を渡すと「ここ意味ある?」とバッサリ切られる書き出しだ。村上春樹の『騎士団長殺し』にもわざわざ「肖像画家が枠小説を書く」という前置きがある。これは切られない。しかし「ここ意味ある?」とは、読者が眺者である以上意識せざるを得ない問題なのだ。
それは作家が小説を書くこと、アマチュアが処女作を書くのではなく、プロの作家が依頼原稿を現に書くこと、その枠組みを明らかにして書くこと、書いたうえで、それがいかにもサイズ的には小品であることを承知しながら、話に落ちをつけ、そしてさしたる満足感もなく筆を置いたことまで書き、なんなら批評家のことまで意識していることを明示するのは何故かと考えなければ『葱』という作品が理解できないからだ。
それが「自己戯画化」なのか、作中にみっともない自分、「苦労して小品を書いてさえ挫折する作家」を描いただけなのか、見極める必要がある。
渾名による擬人化ならぬ擬物化、それによって生じる寓意、竹久夢二の画と通俗小説の間の意味のジャンプ、それが芥川らしからぬ「何しろ」「とにかく」「とか何とか」という言葉を挟み込んだ緩い描写の中で現れる。通俗小説と渾名される十五六のカフェの女給。それをまた芥川は意味に尖らせない。
渾名の付け方は、附属物、見た目、地口、と的を絞らせない。そこで改めて竹久夢二の画に出てきそうな女を通俗小説と渾名した主の「その心」が知りたくなる。何故美人画ではなく通俗小説なのか。果たしてこのお君さんはどんな小説を持っているのか。それはまだ明白ではない。
それが気になったところで、お松さんが出て來る。
お松さんの渾名は知らされない。敢えて黒麺麭とさえ呼ばれない。年上で不器量というだけで、年齢も明確にされない。とんだルッキズムである。もう読むのを辞めた、という人はそれでもいい。
ちょっと用があるのでこの続きは明日。