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地域への感謝を形にしたい。未経験から無農薬バナナ栽培に挑む井上喬之さんの軌跡
子どもからお年寄りまで幅広い世代に愛されるバナナは、誰もが親しみやすい果物です。しかし、国内のスーパーで販売されているバナナの99%以上が輸入品で、さまざまな種類の農薬が使用されていることをご存知でしょうか?
そんな中、神奈川県相模原市で無農薬バナナ栽培に挑戦しているのが、株式会社井上農園・専務の井上喬之(いのうえたかし)さんです。井上農園は、観葉植物レンタルや造園を手がける会社で、取り扱っている観葉植物の種類は100種以上。観葉植物用の温室を活用して、農薬不使用のバナナ栽培を行っているのです。
実は井上さんは、それまで農業は全くの未経験でした。それなのになぜ、難易度が高いといわれる無農薬バナナ栽培に挑戦することになったのでしょうか。その理由に迫ります。
地域住民へ恩返しがしたい。無農薬バナナ栽培を始めたきっかけ
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相模原市で50年以上、地域密着の造園業を営んできた井上農園。しかし、5年前の新型コロナウィルス感染症の流行により、オフィスに観葉植物を飾る需要が減ったことで、観葉植物レンタル事業が停滞。コロナがいつ収束するのかもわからない状況だったため、思い切って観葉植物用の温室を活用した新規事業を始めることにしました。
「これだけ長い間会社を続けてこられたのは、地域の方々のおかげという感謝の気持ちがあります。だから、どうせ新しい事業をするなら、これまでの恩返しになるようなことをしたいと思ったんです」(井上さん)
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「地域貢献のために何をすべきかと考えたときに、『もし災害が起きたときに食料を提供できたらいいのでは』と思いつきました。それに、僕は子どもが大好きなので、子どもたちが喜んでおいしく食べられる果物を作りたいと考えたんです」(井上さん)
その後、社内で検討を重ねた結果、幅広い層に親しまれて栄養価が高いバナナが候補に挙がりました。こうして、2023年の3月、無農薬バナナ栽培への挑戦が始まったのです。
温室での栽培が可能な品種「グロス・ミシェル」
バナナ栽培を始めるにあたって、まず取り組んだのが品種選びです。日本のスーパーでよく見かけるバナナは、海外から輸入された「キャベンディッシュ」という品種。食感は固めでしっかりとしており、甘みよりも酸味が強いのが特徴です。一方、井上さんが栽培するために選んだバナナは「グロス・ミシェル」。こちらは、やわらかくねっとりとした食感と、酸味より甘味が強い濃厚な味わいが特徴です。
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バナナの苗は植えつけてから6か月ほどで木が成長し、白い花を咲かせます。この花が落ちると、徐々に実が大きくなっていき、私たちが普段目にするバナナの形となるのです。収穫まではさらに時間が必要で、実が大きくなってから黄色く色づいて食べごろになるまで、夏場は3か月ほど、冬場は4~5か月を要します。
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グロス・ミシェルの特徴は木の高さです。他の品種と比べて低く、約3.5〜4メートルほどしか育ちません。しかし、観葉植物用の温室では高さが足りないため、土を1メートルほど掘り下げて植え付けを行いました。
その他、グロス・ミシェルを選んだ理由は、「生育温度」も関係しているといいます。
「バナナの栽培に最も適した気温は20~25度です。10度を下回ると生育がストップしてしまう品種が多いのですが、グロス・ミシェルは他の品種に比べると寒さに強く、自社の温室でも十分に栽培ができます。」(井上さん)
とはいえ、美味しいバナナにするためには細やかな温度管理が欠かせません。井上さんは、扇風機や暖房などを活用しながら、適温を保つよう試行錯誤を続けています。
美味しいバナナを育てるカギは「土」にあり
無農薬のバナナ栽培で大事なポイントは「土作り」です。バナナは土から根を通じて養分を吸収して育つため、土壌の健全性がバナナの品質に直結します。
「土壌分析の技術を身につけるために、単身泊まり込みで3カ月間岡山に行って無農薬バナナ栽培のノウハウを学びました。もともと観葉植物の知識には自信がありましたが、土壌分析がこれほど大切だとは初めて知りました」(井上さん)
土壌管理の取り組みとして、井上さんは週1回、土を採取して自ら分析を行っています。さらには月に1回、専門機関に採取した土を送り、より詳細な検査を依頼しているそうです。そうして検査した結果をもとに、栄養状態や病気の原因特定を行い、必要に応じて肥料を調整するなどの対策を講じています。
無農薬への挑戦の裏にあったのは、子どもたちへの思い
井上さんがバナナ栽培で最もこだわっていることは、「無農薬であること」です。子どもに食べさせるなら、絶対に無農薬がいいと強く心に決めていたといいます。
実際、井上さん自身にも2歳のお子さんがいます。さらに、コロナ渦以前には、長年野球をやってきた経験を活かし、地元の中学生に野球を教える活動をしていました。そんな自身の環境や経験から、自然と「子どもたちの未来を守りたい」という思いが芽生えたと言います。取材中も、何度も「子どもが大好きなんです」と笑顔で話してくれました。
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無農薬バナナを栽培するには、想像以上の労力を必要とします。農薬を一切使わないため、毎日手作業で1枚ずつ葉を拭き、天敵となる虫を取り除く作業が欠かせません。驚くことに井上さんは、週の半分近くは、朝から夕方まで葉を拭く作業に費やしているといいます。特に夏場は、温室内の気温が50度近くに達することもあり、室内での作業は非常に過酷です。暑さ対策といっても、大型の扇風機を使う、窓を開けるなどの方法しかありません。それでも、「子どもたちに安全で美味しいバナナを届けたい」という一心で、井上さんは毎日黙々と作業を続けています。この揺るぎない想いが、無農薬バナナを育て上げる原動力となっているのです。
収穫したバナナを無償で提供。子どもたちの笑顔のために
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井上さんが初めての収穫をむかえたのは2024年2月頃でした。「最初は利益にならなくてもいい」という思いから、地域の保育園やこども園に収穫したバナナを無償で提供することを決めました。
直接子どもたちにバナナを手渡すと「バナナだ! 」と大喜びで目を輝かせ、その場でバナナを頬張って、「おいしい! 」と笑顔を見せる子どもたち。その姿に、井上さんは心から喜びとやりがいを感じたといいます。その他、地域住民にもバナナを配ったところ、好評だったそうです。
「地域の方々との関わりは、私にとって大きな励みになっています。バナナ栽培を始める以前にも、庭や観葉植物管理の仕事で、『きれいだね』と声をかけていただけることが多く、その度に人の役に立てている実感が湧きました。このようなやりがいを与えてくれる地域のみなさんには本当に感謝しています」(井上さん)
地域への感謝の思いから、未経験の無農薬栽培に挑戦した井上さん。その熱意は、着実に実を結びつつあります。
これからも地域に根ざした事業を目指して
井上さんが育てた無農薬バナナは、ふるさと納税の返礼品として出品しているほか、相模原市内の料亭へ卸したり、個人の購入希望者向けに販売したりしています。井上農園での直接購入も可能ですが、事前予約制で数量限定販売となっており、1本単位または1キロ単位での販売となります。
最後に、井上さんに今後の展望について伺うと、次のように語ってくれました。
「今後は百貨店での販売や、バナナチップスやジャムなどの加工品の製造販売も視野に入れています。もちろん、保育園など施設への提供も継続していきます。単に利益を追い求めるのではなく、地域の人々に貢献するためという軸をぶらさずに事業を進めていきたいです」(井上さん)
次の収穫は、2025年1月頃を予定。子どもたちや地域の人々に安全で美味しいバナナを届けたいという思いを胸に、これからも井上さんは手間と愛情をたっぷりかけた無農薬バナナを作り続けます。
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