嫌われる覚悟のある人間は強いというお話。
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嫌われる覚悟のある人は強い
嫌われてる人と好かれている人、どっちがより有利か、というものすごく乱暴な話をすれば、一般に好かれている人のほうがはるかに有利だと思います。誰からも嫌われていて好かれないみたいな人はかなり人生のハードモードをプレイしていると思います。
嫌われる覚悟のある人のほうが好かれる人には好かれる
でも嫌われていることや好かれていることと、その人に嫌われる覚悟があるかないかということはまったく別の話です。嫌われないように人の顔色をうかがおうとか善人ぶろうという話をしているわけではありません。
むしろ人から嫌われることをおそれてまわりの人たちの顔色ばかりうかがっているような人のことは好きになれなかったり、実際かえって鬱陶しがられているような人に心当たりのある人も多いのではないでしょうか。
自分から嫌われようとする必要はもちろんありませんが(そもそもそんなことをする意味もメリットもわからない)、それと人から嫌われることをおそれないというのはまた別の話です。
別の話だし、どうしても譲れないところは人から嫌われることもおそれないというのはすごく大切な心構えだと思います。嫌われる覚悟があるかないかということです。
嫌われたいわけでも嫌われようとしているわけでもない。でも正直な自分自身でいてその結果ある人から嫌われることがあったとしてもそれはやむを得ない。それくらい割り切って生きてる人のほうが、誰からも嫌われないように人の顔色ばかり気にしている人より気楽だし、結果的にかえって好かれる人には好かれるんじゃないでしょうか。
どんな風に生きたって誰からも嫌われない人なんていない
そもそも嫌われるってどういうことでしょうか。もちろん嫌われ方にもいろいろ種類があります。単純に嫌な奴だから嫌われる。自分には中身もなにもないくせに人の悪口を言ったり根も葉もない誹謗中傷ばっかり繰り返しているような人。
こういった人は普通に考えて嫌われますし、その嫌われ方にもなんの意味も意義もないと思うのです。一目置かれるでもなんでもない、ただ嫌な奴なだけ。
でも急に極端な話になりますが、究極、どんな風に生きたって誰からも嫌われない人なんて絶対にいないと思うのです。いたとすればそれは物心ついたら無人島にいた人とか、ある朝目覚めたら人類が滅んでいて地球に人類は自分一人になっていたとかそういう人だけだと思います。
そこまで極端な話をしなくても、「誰からも嫌われないように顔色をうかがって生きている人」や、「誰からも嫌われないように八方美人にうまいこと立ちまわっている人」とか、そういう人やそういう生き方がもう嫌いって言う人は現実にたくさんいると思うのです。
いや、顔色をうかがうとか八方美人っていうともう悪いイメージですけど、仮にそんな風にも感じさせない本当に魅力的な人がいたとして、それでもやっぱり「人から好かれる人気者がもう好きじゃない、嫌いだ」って人だっているわけです。
なにか言えば嫌われるリスクがあるのは当たり前
メッセージを発信するということは、それ自体どうしたって嫌われるリスク、勝手に敵対視されるリスクをはらんでいるということです。メッセージ性や影響力が強くなれば強くなるほどそのリスクもまた強くなります。
たとえば僕がこうして自分のブログで自分の考えを書いていることに対してすら「偉そうな口叩きやがって」と言って嫌う人もいれば勝手に敵対視して嫌がらせをしてくる人もいると思います。でもそんな連中のことを気にしていたらもちろんブログなんて書けないどころか生涯口をつぐんでおとなしく山にでも一人でこもって生きていくしかなくなります。僕はそんなのは嫌です。
心にもないことを言って人の気を引こうという話をしているのではありません。むしろ個人的にはそういうやりかたは好きじゃないですし、炎上商法だのは非難する気も怒らないくらい単純に下らないと思います(それでもこうして思っていることを書いているだけで炎上商法だみたいなことを言ってくる人はいるのでそういうケチのつけ方は昨今の流行りのようですが)。
でもあえて物議を醸すようなことを言って注目を集めたいとかではなく、本当に自分が普段から思っていることだったり言いたいと思っていることだったり、心からの自分の信念だったり自分なりに一生懸命考えてこう思ったとかいうことであれば、言いたいことは言えばいいんじゃないかなーと思います(そう思うから現に今もこうしてこんなブログを書いているわけです)。
どうせ嫌われるならありのままの自分で嫌われる方が気楽
もちろん言っていいこといけないことというのはあるわけで、言いたいことを全部言えるわけではないと思いますが、それが人から嫌われそうでこわいからとかって理由だとほんとになにも言えなくなってしまって結局自分が息苦しくなってしまうんじゃないでしょうか。
そもそも自分が本当に思っていることを話したら嫌われてしまうというような人と、自分の本心を隠したり偽ったりしてまで表面的に仲よくしてつきあう意味ってあるんでしょうか?
いや、もちろん一人でいるときの周りからの視線に耐える苦痛と比べればそういう人とでも一緒にいるほうがまだましとか、そこらへんは人それぞれにいろいろな判断があるんだろうとは思いますが、「どうして自分は自分を偽ったり隠すようなめんどくさい思いをしてまで人から嫌われないようにしているのだろう?」ということへの問いかけもされないまま、盲目的に人から嫌われまいとして息苦しい思いをした挙句、かえって結果的に自分が本当に好かれたい人たちから好かれなかったり嫌われたりというのはかなりバカバカしい気がします。
誰からも嫌われない人なんていないということはさっき書いたしよく言われることですが、逆に誰からも好かれないという人もそうそういるものではありません(もちろん人に嫌がらせばかりしているような人は別ですが)。結局どんなふうに生きてみたって好かれる人には好かれるし嫌われる人には嫌われるってだけのことだし、それは避けようがないことだと思うのです。
だったら変に偽った自分を好かれたり嫌われたりするより、どうせ好かれもすれば嫌われもするなら、ありのままの自分でいて好かれたり嫌われたりするほうが、好かれたらうれしいし嫌われるにしても気が楽なんじゃないかっていうものすごく単純な話です。
好かれようと嫌われようと自分は自分
誰からも好かれよう、誰からも嫌われないように生きようなんて無茶なことを考えて絶望的な努力をして自分をすり減らすよりも、好きになるのも嫌いになるのも相手の勝手、自分の問題ではないし、自分は自分が納得するような自分自身でいられればそれでいい、くらいに割り切って生きている人のほうが気楽で強いと思うのです。
第一嫌われることをおそれて生き方からなにまで萎縮しているような人よりも、「好かれようと嫌われようと自分は自分」くらいのつもりでのびのび生きている人のほうが勢いがあって魅力的だと思います。
誰からも嫌われたくない、みんなから好かれたいと思ってそんなふうに生きられるならともかく、どうせ誰からも嫌われないように生きるなんてできるはずないんだから、だったら変に嫌われたくないからという理由で自分を隠したり偽ったり無駄な努力をするのはやめて、嫌われることなんて当たり前に覚悟して自分の好きなように生きたほうが楽しいんじゃないでしょうか。
人から好かれるとか嫌われると言ったって、それは好きになる人もいる、嫌いになる人もいるという当たり前のこと以上のことではありません。どんな風に生きたって嫌う人は嫌います。あきらめましょう。逆に、どんな風に生きたってわかってくれる人はわかってくれます。安心して下さい。というわけで嫌われる覚悟のある人は強いというお話でした。おしまい。
「嫌われる勇気」オススメの本です。
8月も終わり、季節の変わり目です。体調管理をしっかりして、美味しいモノを食べて、適度にスポーツなどして、いい汗をかいて、秋の夜長の読書もいいですね。
森山直太朗-夏の終わり from YouTube Music Night with J-WAVE BAR
冬でも春でも夏でも秋でも、ただ呼んでくれればいい。僕はあなたに会いに行く。だって友だちなんだもの。
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