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疑わしき この世界

昨日の夜23時。

僕は晩ごはんの準備をしていて、牛肉を中火でじっくり焼いていた。
牛肉にはコゲが付着し始め、そろそろ火を止めるかと思ったその瞬間、脳内で唐突に思索が始まった。


◇◇◇


幼き日の体験がフラッシュバックする。
そこは、地元にある個人経営の焼肉店だ。

ちょっと良い値段がして、日常的に通える店ではない。我が家では忘年会で、この焼肉店に行くのが慣習になっていた。そこで、毎回のように親から言われていたのがこの言葉だ。

「牛肉だからあんまり焼かなくても平気だよ!」

僕は昔から、この言葉を信用できなかった。


この言葉に疑問を呈すと、
「豚肉や鶏肉に付着している寄生虫が、牛肉にはいない」という説明がなされることが多い。

たしかに事実としては、そうなのだろう。
しかし、自分では証明できず、目視もできない情報をそう簡単に受け入れていいのか、僕は疑問に感じて仕方がなかった。

この違和感は今でも拭えないが、そんなことは周囲に言えないし、疑ったところでどうせ受け入れるしかない。
そんなわけで、焼肉店にいるときの僕はそんな気持ちを自分の胸の内に秘め、一人黙々と肉にコゲがつくまで焼き続けている。


これは今に始まったことではなく、幼少期からの習慣だ。

親に「牛肉だからもう食べられるよ!」と言われて、まだ赤みの残った肉を勝手に皿に移されるのが本当に嫌だった。
しかも、焼き直そうとしても「大丈夫って言ってるじゃん!」と押し通されるので拒否権がない。

これを書いている今、その光景を思い浮かべただけで心のざわめきを感じる。

自分が疑い、警戒しているものを無理やり押し付けられる感覚。
このきっと、「物事を自分で判断して決めたい」気持ちが強い、現在の自分の性格に繋がっている。


だが実は、この疑いの感覚が「疑いすぎ」だということも自覚している。その自覚があるので、牛ユッケを食べることもあるし、レアの肉を食べることもある。

きっと自分の疑いを100%信じてしまったら、上記のメニューは食べることができないだろう。

牛肉に特定の寄生虫がいない、というのは科学的な根拠に基づくものだろうし、根拠ある事柄を疑いすぎる姿勢は、何も信じられない状態を生んでしまう。

疑いつつも信じるところは信じる、妥協するべきところはする。
そんなバランス感覚を大切にしたいと思っている。


ここまで書いて、あれ、これって結構普通のことを言っているな、と思った。

ので、自分が根本的に何に違和感を抱いているのか、さらに深く考えてみる。
考えた結果、自分は昔から「疑いを持たず鵜呑みにする」姿勢に批判的なのだと気づいた。

なぜ牛肉は焼かなくても良いのか、日本は本当に日本地図の形をしているのか、なぜ細胞が入れ替わっても自分は自分なのか。

普通は疑問すら湧かない事柄なのかもしれない。
だが、僕からすると身の回りに納得できないことがあまりにも多すぎて、世界は常に謎めいていた。


この感覚を強く自覚した出来事として、中学校で解の公式を習ったときのことを思い出す。

古来より伝わる謎の呪文(解の公式)

この謎の呪文に数字を当てはめれば二次方程式が解けると、数学の先生は教えてくれた。

僕の頭には「?」しか浮かんでこなかった。

だが、周囲のみんなは何の疑いもなく謎の呪文を使って問題を解いている。これはもう僕にとっては異様な光景で、疑問を超えて一種の怖さを感じる出来事だった。

なぜ突然与えられた謎の呪文を疑いなく使えるのか。心の底から疑問だったが、きっと自分がズレているのだろう、と自己暗示をかけて自分を納得させた。


実際に、友人にも尋ねてみた。

「わかんないけど楽だからよくね?」
「使えるものは使うんだよ!」

そんな解答が多かったように思う。

先生にも「なんでこれに当てはめると解けるんですか?」と質問したが、
「偉い人が考えてくれたから間違いない!」といった、はぐらかすような解答が返ってきて、ひどく幻滅した記憶がある。


たしかに、先人の知恵に頼ることは大切だ。実際、試験でもちゃっかり解の公式の力を借りて、なんとか試験をパスしてきた。
(自分の疑いに固執せず、一応の妥協をしてバランスを取れる点は、自分の良い所として密かに評価している)

が、やはりその後も数学の機械的な解き方に納得できず、数学はどんどん嫌いになっていった。


話を戻そう。
とにかく僕は「疑いを持たないこと」に強い抵抗を感じるのだった。

だが、疑いすぎるのも良くないという自覚がある。
「自分は疑いすぎなんだ」という意識を持って、バランスを調整している。

これは、「何事も極端にならないことが大切だ」という思想が自分の根幹にあるからだろう。


特に、これからの時代は「答えらしきもの」が誰でも瞬時に検索できる時代になる。
これらを100%疑いを持たず信じ、鵜呑みにする習慣がついてしまうと、「答えらしきもの」を「答え」として受け取るようになってしまうだろう。

提出された「答えらしきもの」が「答えらしきもの」だとすら気づかず、疑うこと、考えることなく「答え」として受け取る世界。

正直、疑いすぎな僕の感覚からすると、すでに疑わない風潮が強すぎるくらいに感じている。


そして今、この文章を書いていて、たびたび憤りのような感情を抱いている自分に気づく。

「このままで本当に良いのかよ!!」という気持ちが湧き上がってくる。

この沸々と湧き上がる気持ちは、大切にしたいと思う。自分にとって大切な事柄である証明になるからだ。

ただし、もしもこの憤りを誰かに訴えたいのであれば、相応に納得感のある言葉で説得しなければならない。
この文章を読んでいただければわかると思うが、僕が考えている内容はまだまだ粗があり、論理的に納得してもらえるような構造ではない。

「疑われてしかるべき」文章である。


ただ、僕の文章を読んで「疑って」もらえれば、それは大きな収穫なのではないかとも思う。

いや、考え、疑いながら読んでもらえるような、脈絡のない文章を自分は書きたいのかもしれない。

自分の文章スタイルすらも疑わしくなってきたところで、とりとめのないこの文章を一旦の区切りにしたいと思う。


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