見出し画像

僕を作り上げた奇妙な青春

僕は「時間について」、のような答えのない哲学的な問いを深く考えるのが好きだ。

思い返してみると、この性分が身に付いたのは意外にも、中学校のバスケットボール部に所属していた時期だったように思われる。

今回は、僕がこの身で体験した奇妙な青春の思い出を書き綴っていこうと思う。


◇◇◇


「バスケ部と哲学的な思考になんの関係があるんだ」

これは、ここまで読んでいただいているみなさんがまず抱く感想だろう。

正確には、バスケ部で行っていたとある練習が深く考える習慣の源流となっている。


その名も「一時間走」。

僕にとっては、中学時代が遠い過去の記憶となった今聞いても少々嫌な気持ちになる言葉である。


このメニューでは読んで字のごとく、一時間ひたすらに学校の敷地内を走り続ける。

というのも、バスケットボールの試合では約1時間弱、かなりの速度で走り続ける必要がある。

そのための持久力をつけるべく課されたメニューがこの一時間走というわけだ。


この一時間走のもっとも苦しい点は、「どんなに頑張っても早く終了することがない」という点だ。

「校庭10周」というように明確な目標が定められていれば、頑張ろうという気持ちが湧いてきて体も心も元気になるというものだろう。

しかし、この一時間走ではそれがない。

心を無にして、ただひたすらに走行ロボットになるしかないのである。


さらに悪いことに、このメニューは一週間に2~3回というかなりの高頻度でやってくる。

これはもう、憂鬱以外のなにものでもない。


◇◇◇


そして今日もまた、ストップウォッチの「ピッ」という空虚な機械音と共に、代り映えのしない景色を一時間眺めることとなる。

この永劫とも思える時間を繰り返し体感する中で、僕の心は自然と逃避法を編み出した。

それは、退屈をまぎらわすためにひたすら、何かに思考を巡らせることである。


当初考えていたテーマはたしか、「今日の晩ごはんについて」だった。

もはや鉄板ともいえるテーマだが、育ち盛りの中学生、しかも過酷な練習をこなした自分にとってはなんとも楽しい考え事だった。


だが、そこはさすが魔の一時間走。

こんな楽しい考え事をしていても、時計は5分程度しか進まない。


「もっと…もっと何か深く没頭できるテーマを編み出すんだっ…!」


とりかな少年はもはや走っている現実から目をそらすための事柄を探すことに必死だった。

そこでふと思い浮かんだ。


「時間ってなんだ…?」


見つけてしまった。

一時間走にも耐えうる最強のテーマをおれは見つけたぞ!!

「時間って存在するのか…?」

「なんで一時間という時間におれは行動を縛られてるんだ…?」


そんな中学生とは思えぬ問いを思いついたとりかな少年は、ひたすらに考え事をして走っているという現実から目を逸らした。

するとどうだろう。

これまで考えていたテーマとは比べ物にならないほど早く、時間が経過していたのだ。


「これだ…!」


バスケ部ではベンチメンバーだった過去の自分に「力のいれどころが違うぞ」と小一時間ほど問い詰めたいところだ。

(…が、「小一時間」というワードを書いていて嫌な記憶がフラッシュバックしたのでやめておこう)


それからというもの、中学1年生から3年生で引退するまで、僕は一時間走の時間をひたすらに物事を考え続けることにあてた。

時間、宇宙、星、歴史、言葉…。

自分の関心があった深遠な事項について、ひたすらに考え続けた。

当然ながら答えは出ないし、中学生の知識量では考えの深さにも限界はある。


しかし、この時に身に付いたひたすらに深く考える習慣(習性といってもよいかもしれない)は、20代も後半に差し掛かった今も、深くこの身に刻まれている。

この奇妙な体験は少なからず、自分の人生に影響を与えたといってよいだろう。


◇◇◇


僕がいま、フリーランスとして活動していることもこの出来事が影響していると考えている。

一時間走と違って自分が頑張れば仕事を早く終えられるし、日々深く考え、試行錯誤することにも楽しさを感じている。

また、このようにエッセイが書けているのも、当時あらゆるものから考えるテーマを探していたことに由来するのかもしれない。


このように、忌まわしき一時間走は奇しくも自分の熟考する力を深めるとともに、自分らしさを知る時間でもあったのだ。

バスケ部で仲間と切磋琢磨した日々はかけがえのない青春の一ページだ。

だが、それと同等かそれ以上に、この奇妙な青春は僕の心にくっきりと焼き付いているのだ。


#部活の思い出

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?