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2023年映画感想No.73:キリング・オブ・ケネス・チェンバレン(原題『The Killing of Kenneth Chamberlain』) ※ネタバレあり

リアルタイムサスペンスであることの必然

ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。
医療用警報装置の誤作動がきっかけで安否確認のため自宅を訪れた警察によって住人の黒人老人が射殺された事件を描く。
観ているあいだはあまりリアルタイムサスペンスであることを意識していなかったのだけど、映画の最後に実際の事件の時間経過が示されると現実の事件も警察到着からほんの90分でチェンバレン氏が亡くなっており、映画の84分という構成が極めて現実に即したものだということに大きなショックを受けた。
たった映画一本分の時間の中で人間が理性を完全に見失い、暴力によって取り返しのつかない事態が起きてしまうことの異常性をそのまま追体験させられるような構成になっている。

小さなきっかけで動き出す暴力的な運命

アバンタイトルで寝ぼけたチェンバレン氏が誤って警報装置を押してしまう場面があくまで「ほんのちょっとした誤操作」として描かれるのだけど、それだけにこれっぽっちのことが全ての始まりであるという皮肉がずっと響き続けているように思う。まるで動き出したら止められない禍々しい何かが作動してしまったかのように無機質に鳴り続ける装置の音と、それを知るよしもなく寝ているチェンバレン氏という場面の構図がまるで嵐の前の静けさのような緊張感を作り出している。
すぐに緊急の要請ができるようにしているくらいなのでチェンバレン氏は一人暮らしの老人として体調的に結構心配な状態であり、映される部屋からもどれくらい一人で生活できているのかなかなかに怪しい様子が見てとれる。こういうセーフティネットを必要とする人間であり、個人を助けるシステムは極めて正常に機能しているのだけど、それこそが悲劇のきっかけになっているというのが皮肉で辛い。

印象的な音の演出

チェンバレン氏は精神疾患を抱えている上に警官に対するトラウマも匂わされるので中々安否確認に来た警官からの要求に上手く応えることができない。そういうチェンバレン氏の不安定さから来る停滞した状況を犯罪性と結びつけてどんどん安否確認という当初の目的から武力的な方向に警察側の態度が逸脱していく背景には治安の悪い貧困地区への偏見や人種差別があり、対話の可能性がどんどんと否定されていく展開が観ていてとても暴力的に映る。
本作では「音」が関係性の距離を象徴するものとして効果的に用いられているように思う。チェンバレン氏は常に緊急対応のオペレーターと通話したり外にいる家族とも連絡が取れたりと外部に助けを求める手段も持っているのだけど、そういう外部から差し伸べられるコミュニケーションの可能性は物理的に近くにいる警官たちによって常に断絶させられる。白人警官が情緒不安定になったチェンバレン氏がうわ言を聞き取って「中に誰かいる」と誤解を加速させる一方でドアの近くで通話しているチェンバレン氏や電話口のオペレーターの声は彼らには届かない。階下から様子を見に来たチェンバレン氏の姪の説得も物理的に遠ざけることで拒絶されてしまう。
チェンバレン氏が感じている不安もまた音によって表現されている。補聴器をつけているチェンバレン氏は大きな音に敏感なのだけど、ドアを叩くガンガンという音が彼のトラウマを刺激する暴力的な響きとして印象的に繰り返される。
対話という平和的な可能性は失われ、暴力を表す音だけがどんどん強まっていく。

外部を廃した閉塞的状況

警察官たちは随所で「状況をコントロールしろ」という表現を使うのだけど、物理的距離は彼らの支配力そのものでありその中では外部の存在は認識されないし介入もできない。そうやって自分たちの都合しか見えなくなり暴力的判断だけが高まり続ける警察側の近視眼的視点が音を巡る演出にも象徴されているように感じた。
同時に、映画として一つのドアの前で関係がこじれていくというシンプルな構図のサスペンスに対して、外部の存在が登場するたびに「これでもう大丈夫なんじゃないか」と思わされてしまうところが構成的な緩急にもなっている。そうやって劇中に何回か訪れる希望の予感は全て裏切られてしまうのだけど、だからこそその一つ一つが引き返せたかもしれない可能性としてより重たい意味を持つ描写にもなっていると思う。

ロッシ~暴力の論理の内側にいる外部の視点

外部を廃した閉じた場所の中で暴力の論理が暴走していく物語だからこそ、警官たちの中で唯一外部的な視点を持っているロッシという新人警官が良心的立場になっていくことにも映画的な必然がある。
彼だけは唯一チェンバレン氏の状況を理解しようとしておりコミュニケーションによる解決を探っているのだけど、彼が提案するマニュアルという理性的、倫理的原理原則が警察の暴走した正義によってナンセンスなものとして否定されていくのが辛い。彼だけがその場を支配する力学の内側にいながら外部という客観的視点を持っているからこそ、「この時点で何とかできれば」という可能性を常に感じているし、そこでどうにもできない葛藤や無力感、後悔によって良心を傷つけていく様子に胸が痛む。
物語の中で最も解決に近づくのも彼による対話であり、劇中で徹底されている物理的な距離と精神的距離の矛盾が、終盤にベランダ側からロッシがチェンバレン氏の説得にあたる場面では唯一矛盾せずに演出されている。それだけに文字通り彼らを隔てている壁をもう少しで越えられるというところでその可能性が潰えてしまうのが本当に苦しいし、その後にロッシが見せる後悔と絶望に胸が締め付けられる。

アメリカの病理

劇中はっきりとは明示されないけれどチェンバレン氏が病んでしまった背景には海兵隊従軍経験からくるPTSDも匂わされており、本作の暴力の根拠になっているヘイトと、そういうものの犠牲者の抱える事情の両方にアメリカ的なる価値観が横たわっていることがアメリカの病理として浮かび上がる。
そういう自分たちが信じてきたものの罪と向き合わなければまた同じような犠牲が出てしまうと思うし、この事件が有罪どころか起訴すらされていないというところに問題の根深さが改めて示されるのだけど、だからこそ事件から10年経ってこういう作品が問題提起として作られ、映画祭などで評価される状況があることは今後の希望だと信じたい。

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