2023年映画感想No.14:対峙(原題『Mass』)※ネタバレあり
答え無き対話の先を示す見事な構成の密室会話劇
TOHOシネマズ日比谷シャンテにて鑑賞。
高校銃乱射事件の加害者遺族と被害者遺族という二組の夫婦が事件から6年経って教会の一室で会合する。被害者遺族が何を求め、加害者遺族が何を語るのか。この会合が何のために開かれ、何を目指して取り返しのつかない喪失と向き合うのか。
神なき世界となって久しい現代社会において「他者という不条理」にどう答えを示すのか。まだ傷ついていない人が傷つけ合わない選択をすることは簡単だけれど、大切なものを奪われ、その怒りや悲しみの行き場を失って生きる人がどのように人生を取り戻せば良いのか。取り返しのつかない事が起きた後というこれ以上なく難しい設定から真摯に問いかける。
答えなき対話の先にそれぞれの中にある「話して良かった」と思える結末が確かに浮かび上がる複雑で緻密な構成の見事な密室会話劇だった。
緊張関係が表面化してくる丁寧な展開
これは劇映画であり作られた物語、登場人物であるからこそ物語内で描かれる人物の解釈や解決に対して一般化した捉え方をしないように気をつけながら感想を書こうと思う。
過去に囚われた二組の夫婦があるかどうかもわからない答えに向けて対話を重ねる。
そんなことしても本質的な解決にはならないと分かっていながら真実を知ろうとし相手を責めてしまう被害者遺族の夫婦と、自分たちの目から見てきた物語をある種誠実に答えるしかない加害者遺族の夫婦がいる。対話の中で二組の夫婦同士だけでなくそれぞれの夫婦間の中にある微妙な視点や価値観の違いまでもが浮かび上がり、各人がこの対話に求めるものや目指したい救いが少しずつ見えてくる。
建前上穏やかに始まった話し合いがどうしたって緊張関係に発展していく流れが見事で、一方の夫婦の息子が亡くなった事、その原因がもう一方の夫婦の息子にある事という乗り越え難い隔たりが小さなやりとりからメキメキと表面化してくる。
事件から今に至る6年の間に法廷で散々やり合った後だからこそこの対話の目的は謝罪でも責任の追求でもなく、そのある種の目的の曖昧さが見ていてヒヤヒヤするようなやりとりの緊張を強めている。被害者遺族がなぜ「何があったのか」を明らかにしたいのかには明確な言葉にできる答えはないし、かといって加害者遺族が語る「何があったのか」には被害者遺族が知りたい真実は明らかに欠如している。その齟齬が二つの夫婦間の軋轢をグイグイ高めていく。
行き場のない怒りをぶつけられる相手を探している被害者遺族とどこにも出せない悲しみを抱える加害者遺族の抱える本音はそれぞれに目の前の相手を傷つける言葉でもあり、だからこそ慎重に内側にしまい込んであるのだけど、過去を振り返る事で蓋をしていた感情が引き出され、それを一度ぶつけてしまうともう痛みの連鎖を止めることはできない。
行き場のない気持ちを抱え続ける被害者遺族の夫婦
各夫婦それぞれの立ち位置の違い、そこから生じる人物の印象の変化の出し方も丁寧で見応えがある。加害者遺族の夫婦はどちらもあったことを話しているだけなのにそれぞれの語り口には印象の違いがあり、それを受ける被害者遺族の夫婦は理性的に振る舞っていた夫側こそ抑えていた感情があった事が見えてくる。
それぞれの感情の立ち位置に微妙な違いがあり、それが何を知ろうとし、どう語るのかの中から少しずつ見えてくるのだけど、常に「過去は戻らない」という前提に対話が突き当たってしまうのが見ていて苦しい。
被害者遺族の父親はいまだに起きた出来事に対して行き場のない憎しみや怒りを抱えている。目の前の夫婦に対して「防げたのではないか」、「親として気づけたはずだ」、「あなたたちの息子が邪悪だったんだ」とどれだけ過去を責めても答えなんて見つからないし、見つかったとしても彼の喪失に対する解決にはならない。
冒頭意味ありげに映された鉄線の赤いリボンが彼のどうしようもなく拭いがたい悲しみを表現するモチーフとして再び映し出される場面は胸が張り裂けそうになるほど悲痛で辛い。彼が現場となった学校で血の跡を見た時の気持ちは観客の安易な理解や感情移入などできない体験だからこそ映画的な象徴表現がその痛みの切実さを尊重しているようにも思う。
リボンを回想するような編集はこの映画の文法としても唯一イレギュラーな演出になっているからこそ彼がずっと抱えてきたものが最大限の悲痛さで迫ってくる。
被害者遺族の母親は深い悲しみや恨みから前に進みたいと思っているのだけど、夫と同じように自分の大切な人の命を奪った出来事を許せないと思う気持ちを乗り越えられずに苦しんでいる。息子を大切に思う気持ち故に誰かを責めたくなるのだけど、報復的な気持ちのやり場を探しても息子はもういないという現実にしか突き当たらないし、そうやって傷つけようとし、その不可能性や報われなさに自身が傷つくというサイクルから別の方法で救われたいと考えている。
加害者遺族の夫婦の語る「親子」
加害者遺族の家庭には少なからず問題はあったのだろうと思う。父親は「二人目は望んでいなかった」と言い、「自分たちの息子に限って学校で上手く行ってないなんてことはないだろう」と問題の兆候に見て見ぬふりをしていた。期待という名の下に厳しさを押し付ける父権的家庭であったことも匂わされる。
一方で彼らの口から語られる「親子関係」は決して異常などではない。子育てに難しさを抱えながら上手くいくと信じてやり過ごすことも、その先にこんな事件が起きるなんて想像できないことも、当たり前だけどどこにでもいる親の気持ちと変わらない。「何かが起きるまでは彼らも普通の親子だった」ということが問題の難しさであり、一つの真理なのだと思う。
「あなたたちは失敗した」という言われなくても痛いほどわかっていることについて責められ続けることに苦しんでいる父親と、「凶悪な無差別殺人犯という結果」と「良い親子であろうとした過程」という罪の意識と息子への愛の狭間で苦悩する母親にはやはり感情の置きどころに違いがあり、それは最後まで二人の態度の違いにも表れているように感じる。「自分も苦しいしあなたたちも苦しい、じゃあこの話は終わりにしましょう」という加害者遺族の父親のドライで割り切った態度はそれはそれでとても人間的だと思う。最後に「良かった良かった、はいおしまい」って感じでサッサと切り上げようとするところとか結構感じ悪いのだけど、「こういう人もいる」という清濁合わせ飲む身も蓋もないリアルを切り取る誠実さを手放さない本作のスタンスが改めて感じられた。
原題『Mass』の意味
対話の舞台となる部屋には印象的にキリスト像がかかっており、観客は文字通り神の視点としてこの場に居合わせることになる。
観終わってからSNSなどで調べて知ったのだけど原題の『Mass』には「集団」、「マスシューティング(銃乱射事件)」という意味の他に教会の「ミサ」という意味もあるらしい。
そのことを考えるとこの対話自体がそれぞれにとっての神の前での告白であり、それを経てこそ救われることができる話とも言える。キリスト教的な背景を鑑みて誠実さや信じることを前提に考えるならば、語られる出来事はやはりそれぞれの切実な真実なのだろうし、一般化された「解決」ではなく各々の主観的な「救い」が訪れるのも極めて現代的な宗教的救済の在り方であり、それは確実に対話が始まる前には無かった彼らにとっての希望なのだと思う。
ラスト、加害者遺族の母親が最後まで心の底に留めていた本音を吐露する。それを認めてしまったら自分の愛していた息子を自分自身で否定してしまうことになるかもしれないけれど、被害者遺族への誠実さからそれを伝えに戻ってくる。母親同士が抱きしめ合う場面は彼女たちの難しい関係においてお互いがお互いにとっての救いになることができるという一つの切実な答えに辿り着くことができた瞬間のように感じられた。
そしてそんな小さな奇跡が積み重なる事で被害者遺族の父親にもささやかな平穏が訪れる。僕は無宗教だし神がいるかどうかはわからないけれど、目の前の他者を思いやることで互いが救われるというこの映画の大切な結論を象徴する出来事としてラストの一連の出来事はとても美しい奇跡だと感じた。