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2023年映画感想No.41:クリード 過去の逆襲(原題『Creed III』) ※ネタバレあり

運命の明暗と関係性のこじれ

109シネマズ川崎にて鑑賞。今作はなんと主演のマイケル・B・ジョーダン自らが監督も務める。
かつて兄弟同然の親友を見捨てて逃げ出した過去と向き合う物語を、暴力的な手段によって人生を取り戻そうとするかつての友人本人に対して家族を守るための強さで対峙し、戦い、乗り越える、というプロット自体の筋書きはとても良かった。
自分がそうなっていたかもしれない裏表の存在としてのデイムにアドニスは自責の念を感じており自分が受けてきたチャンスや恩恵をデイムに対しても作り出そうとしてあげるのだけど、デイムへの贖罪によってボクシング界に無理を通して行くアドニスの苦悩は結果としてデイムの人生への怒りを煽ってしまうのが辛い。アドニスがデイムに手を差し伸べるほどアドニスが歩んできた幸福な人生がデイムに突きつけられるようで、だからこそデイムは自分のものだったはずの物語としてアドニスのキャリアを上書きし、奪い取ろうとするようになる。
明暗が分かれた二人の人生の対比として輝かしいキャリアの最終戦を終えたアドニスとようやく刑期を終えてシャバに帰ってきたデイムが再会するというのが皮肉だし、そのコントラストの中で物語が進んでいくからこそ常に二人の関係には後ろ側に別の本音を隠しているような気まずさや緊張感が漂い続けているように映る。
二人の間には自分だけが幸せになってしまったという負い目とこいつだけが幸せになったという不満があり、その本音と向き合えないことで関係がこじれて行く。

デイムに向き合えないアドニス

かつてリングで父を亡くしたアドニスは引退して良き父親になろうとしているのだけど、デイムによってボクシングに引き戻されていく。デイムの出現によって自分の築き上げたキャリアが根幹から揺らいでしまったアドニスは、そうやってボクサーとしての自分を物語を完結できず、その理由を家族にも打ち明けられないことが夫婦関係をも狂わせていく。本作には映画外の背景からスタローンは参加していないのだけど、相談役としてのロッキーがいないということがアドニスが「自立した男」として一人で抱え込んでしまう物語を上手く際立てている部分もある。ロッキーから自立したアドニスの物語であるということはロッキーがフィラデルフィアに叫んだのに対して本作のアドニスはロサンゼルスに吠える演出があることからも象徴的に感じられる。
アドニスはデイムにチャンスを与えることがボクシング界的には筋が通ってないとわかっていながら彼への負い目からかつての自分が受けてきたように練習の機会を与え、特例的なマッチメイクをしてしまう。一方で誰かにデイムを止めてほしいと思っている本音が明らかにデイムに対する上っ面の関係に表れていて、結果的にジムにもデイムにも中途半端で何がしたいのかよくわからない立ち回りをしてしまっている。
タイトルマッチの直前、どっちつかずなアドニスはチャンピオンのチャベスと挑戦者のデイムの両方を激励するのだけど、激励を終えて部屋を出たアドニスと暗い部屋の中に取り残されたデイムが壁越しに見つめ合うカットが不意に二人の対立を浮かび上がらせるようでハッとさせる演出になっている。

暴力によるボクシングvs制御するボクシング

かつての自分に重なるデイムが暴力的なボクシングで人生を取り戻そうとするのに対して、ボクシングを通じて築いた守るべきアイデンティティとしての家族との関係によってアドニスが自らのボクシングを見つめ直していく展開も対比の構図として上手い。
過去の自分と同じように何かを解決するために暴力を振るってしまう娘に対して過去に自分が必要としていた父というメンター役を担うことでアドニス自身も自分のボクシングに立ち返っていく描写が良かったし、何かを否定し、奪うための暴力ではなくより良い自分自身になるためのものとしてのボクシングを示すことがデイムと戦う理由として設定されているのが素晴らしい。
デイムはドラゴを怪我させリング外でアドニスにも手を出すというはっきりとボクサー的倫理を踏み越えるキャラクターであり、だからこそデイムの暴力によるボクシングをボクシングによって人生を前に進めてきたアドニスのボクシングで乗り越えるというクライマックスの構図には大きな必然がある。

過不足のある演出のムラ

マイケル・B・ジョーダンが各所で言及している日本アニメからの影響という部分は特にアクションシーンとしての試合の見せ方において発揮されていると思う。冒頭のコンランとの再戦シーンから過去の同シリーズには無かった見せ方で試合の中での駆け引きを描いていて印象に残る。一方で中盤以降は「なぜこっちが勝つのか」を明確にする描写の工夫はぐっと少なくなってしまう。
また、デイムがデビュー戦にしてタイトルマッチを戦うに至る理屈はかなり強引にすっ飛ばされていて、彼が本当にその舞台に見合うボクサーであるという描写が無いのでアドニスの無理矢理なマッチメイクの説得力の無さがより不自然にせり出してしまっているように思う。
ボクサーとしてのデイムがなぜ強いのかの理屈がないし、動きなどもそこまですごいボクサーのように見えない。ダーティーなファイトスタイルだけが特徴のブランクのあるロートルが世界戦になって急にバリバリの世界チャンピオンと良い勝負できるところにも説得力が足りていないように思う。全員が彼を見くびっていたのかもしれないけれどそう言及される描写も無いので単に演出が足りていない印象が残る。

ドラマ性で押し切るクライマックスの勿体なさ

特に試合描写の過不足についてはクライマックスの大事な場面にも手触りとして残ってしまっているように思う。象徴的な演出が二人のドラマ性を際立てる一方でアドニスがデイムに勝つボクシング的な理屈についてはあまり上手く描ききれていないのがもったい無い。
「かつての自分」であるデイムに対して「クリードとしての自分」を定義する家族の関係を対比させてきたからこそ、「制御するボクシング=アドニスだからこそたどり着いたボクシング」を具体的なボクシングスタイルとしてデイム戦で描いてほしかった。せっかくアモーラと一緒にボクシングをやる場面があるのだからそこでの会話や練習をデイム戦での勝利のロジックに繋げることはいくらでもできたと思うし、クライマックスに立ち上がる場面でも「アポロ・クリードの息子であり、ビアンカの夫であり、アマーラの父だからこそ負けない」という彼固有の強さを表現することはできたと思う。
クライマックスのタイトルマッチでダウンしたアドニスが立ち上がる場面は過去の試合で何度も追い詰められてきた記憶を思い返すというフラッシュバック表現になっているのだけど、だったらばロッキーの存在に全く言及しないのは不自然だし「アドニスがどうやってここまで来たのか」を示す映像としては極めて中途半端に感じてしまった。そこで感じるべき「これまでの物語」はシリーズのファンなら補完できる部分かもしれないけれど、そういうレガシーの蓄積こそシリーズものの強みだと思うのでここぞの場面だからこそロッキーやアポロの実際映像までをも繋げて「アドニスの物語」を見せつけてくれればもっと感動的な場面になったと思う。
結局コンランやヴィクターなどこの映画の中だけで完結する物語に収めた演出になっていることがアドニスの物語自体を矮小化してしまっていて、そこはとてももったいない印象を持った。

『クリード SHINJIDAI』はここ数年映画館で観たどの作品よりびっくりした。

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