2023年映画感想No.31:The Son/息子(原題『The Son』) ※ネタバレあり
『ファーザー』から連なる作家性と反転する映画の視点
TOHOシネマズ日比谷シャンテにて鑑賞。
『ファーザー』のフロリアン・ゼレール監督らしくある人間の抱える内面的な問題について映画という体験を通じて問い直し、多角的に見つめるような内容なのだけど、前作『ファーザー』がアルツハイマーを患う主人公の主観的視点を追体験させる語り口だったのに対して、本作は急性鬱を抱える息子を客観的に見つめる親たちの目線から彼らと目の前の息子の間に横たわる断絶を浮かび上がらせる。
『ファーザー』同様にモンタージュやワンショットの連なりという映画的な文法によってある人物とある人物の見ているものの絶望的な違いが鮮やかに立ち上がる瞬間があるのだけど、前作とはまた違う方向から映っているものを観客に疑わせ、その亀裂から見えないところにある真実を想像させる語り口がとても見事だった。
表面的に進行する物語とその後ろ側にある真実
別れた妻から息子ニコラスが学校に行っていないという報告を受ける冒頭部からさりげなく主人公ピーターの属性を見せる撮影的演出が行き届いていて上手い。奥さんが赤ちゃんを寝かしつけている途中で帰ってくるピーターの様子には子育てに対する主体性の欠如や妻の負担への鈍感さが透けて見えて、一見すると幸せそうな関係性の背後にある問題の芽がしっかりと描き込まれている。
訪ねてきた元妻ケイトに相対するピーターがドアを跨いでその問題を知らされる様子からは家庭間の分断が物語の焦点になる予感が感じられるし、ニコラスを自宅に迎え入れる場面も奥の鏡に彼らの姿が映り込んでいることで表面的に映し出される関係性からは見えない側面が存在していることが暗示されている。
それらの予感はきっちり後の物語に繋がっているのだけど、一見すると何も起きていない場面にもきちんと演出の重層性が織り込まれていることが「上手く行っている」と感じている主人公側の視点と「実は常に問題が起きている」という息子側の視点の断絶を常に内包する物語であることを映画的にも表現している。
ピーターの抱える父権の欠落
ピーターはエリートビジネスマンであり築いた社会的地位が彼のアイデンティティの中心にあることを職場が映る最初のカットで画面の中心に捉えられるその様子からも感じることができる。
ある種完璧な社会人である彼は一方で家庭を捨て不倫相手と再婚した過去があり、その父権的欠落によってニコラスとの関係性もどこか不完全なものになってしまっている。ニコラスがやってくる父親の家は前提として「他人の家庭」であり、その場所自体が彼の根本にある欠落と直結していると思うとそもそも最初から最後までボタンはかけ違い続けていたのかもしれない。いくらそこで温かな関係を築こうともそこに彼の居場所はなく、その孤独は消えない。
その極め付けがダンスシーンの最後にある演出のように感じられる。ピーターが踊る場面はこの映画で最も楽しい場面だからこそ、それを共有したつもりになっていた観客にとってもそこに存在し続けていたニコラスの絶望がショッキングなまでに際立つ。もはやホラー映画のようですらあり、何か前提から間違えているのではないかと物語全体の印象を反転させるくらいに強烈な場面になっている。
父親へのコンプレックスの連鎖
主人公ピーターもまた父親との関係にコンプレックスがあるのだけど、それをたったワンシーンの出演で鮮やかに成立させるピーターの父役のアンソニー・ホプキンスも素晴らしい存在感だった。
政界の重鎮として家庭を顧みない仕事人だった父親に傷ついた過去を自力で乗り越えた経験がピーターの人生観の根本にあり、その価値観をニコラスの人生にも当てはめようとしていることがニコラスにとっての抑圧になってしまっている。
ピーター自身が囚われている「男らしさ」が彼の人生に秩序をもたらしてきたことは事実なのだろうけれど、だからこそそれが身近な人たちを傷つけていることを認められなくなっているようにも見える。息子から過去を責められると「自分の人生だ」と開き直り、終盤で今の妻から第二子とも向き合ってと言われると「その話はやめよう」と対話から目を逸らす。自分が正しくないことを認めてしまうと自分が最も憎んでいる父親と同じ人間になってしまうのが怖いのだろうし、そうやって彼が囚われている彼自身が行動原理の後ろ側に浮かび上がる演出のバランスも見事だった。
入院したニコラスのもとを元妻のケイトと訪ねる場面は病院側の対応にも結構問題があるように見えるのだけど、それによって僕のように人の親になったことのない人間にも「親」という人種がどのような思考から正しくない選択をしてしまうのかに感情移入させられるバランスが生まれているようにも思う。「自分たちしか息子を何とかすることができない」というエゴイズムがある一方で、あの状況だったら自分も同じ選択をしてしまうかもしれないという説得力があり、だからこそ安易に彼らの選択を他人事として突き放させてくれない。
自分の人生を肯定できないニコラスの苦悩
父親が家庭を捨てて出ていってしまった時からニコラスは自分の人生を肯定できなくなっており、未だにその承認の欠落を乗り越えられていないのだと思う。父親との関係を再生することで問題は解決しようとしたのかもしれないけれど、父親によって作り上げられたニコラスの人格をその父親本人によって緩やかに否定されていくことで絶望ばかりが深まっていくのが辛い。そもそもピーターに預けること自体が母親の独断だった可能性もあり、そこから全て間違っていたのかもしれない。
学校に行け、みんなと同じようにできれば幸せだとピーターは説き続けるのだけど、そもそも父親である彼が幼少期にいなくなったところからニコラスは「みんなの当たり前が自分の人生には無い」という不条理を背負い続けて生きてきたわけであり、そのコンプレックスを「乗り越えるべき問題」と捉えること自体がどれだけ彼を苦しめているのかを考えると胸を締め付けられる。
君は君のままでいい、と抱きしめてあげる人が誰もいないことで全員がニコラスの背中を崖っぷちの方に押している物語のように感じる。
洗面所の猟銃をめぐる会話が生み出す緊張感
演出的には序盤にさりげなく洗面所の猟銃の会話を挟んでいることが上手い。ニコラスが洗面所の方に行って姿が見えなくなるたびに不穏な予感がよぎる。また父権の抑圧の輪廻をドラム式洗濯機に重ねる演出の象徴性もより強まっているように感じる。
ラストシーンも表面的には穏やかな家族の再生を描きながら緊張感の高まりをやかんが沸騰する音で演出していて観客にノイズを感じさせる工夫がある。ニコラスが姿を現すことで一旦絶望は回避されたかのように思えるのだけど、それがよりのちの展開のやるせなさを際立てる演出になっている。
美しい家族の思い出の逆光
ピーターとニコラスの二人が理想の親子であった最後の季節として過去の旅行の海水浴の場面を最後に挟む構成も辛かった。良きロールモデルとしての父親と父親の望む人間になろうとした息子の関係は彼らの間にあった最後の希望のようであり、この物語自体ずっとこの逆光の中で進行していたようでもある。
彼らはそれを信じたかったかもしれないけれど、そこで見た「理想の父」、「理想の息子」像は互いにとっての呪いでしかなかったのかもしれない。
「当たり前」の抑圧、正解無き愛情の形
ピーターはずっと自分が間違っていると気づき、息子を理解できるようになる変化の入り口に立っていたように思う。自分が父親と同じことをしていると後悔を口にするけれど、最後まで正しい接し方を導き出すことはできない。最後にピーターが見るニコラスの幻想も、ありのままのニコラスをピーターも頭ではわかっていたと捉えることもできる。
良心そのものを罪として描くわけではなく、良心が必ずしも正しいとは限らないという正解無き人間関係の在り方を見つめる。誰かの正しさが誰かを抑圧することがあることも、家族というものが自明に美しいわけではないことも、「当たり前」ということがいかに恐ろしいか取り返しのつかない悲劇を通じて誠実に見つめる傑作だった。