2024年映画感想No.21 SUPER HAPPY FOREVER ※ネタバレあり
何気ない描写の精度の高さ
新宿武蔵野館にて鑑賞。
冒頭から明らかに様子のおかしい主人公・佐野の行動はどこかコミカルな無軌道さがあるのだけど、それが大きな喪失によって破綻した現実だとわかると全てが切なく反転する。次に何をするのかわからない佐野の行動はそれ自体に目が離せない描写の面白さがあるし、探し物をしている彼を通じて「もうそこにないもの」がなんなのかを観客に想像させるような語り口が印象に残る。
やりとりそれ自体の面白さも強いし、最後まで見ると序盤の何気ない場面の精度の高さにも感動がある。構成的に映画の後半で観客が映画前半の描写を思い出せるかどうかがとても重要な作品なのだけど、映っている場所などどんな意味があるのかまだ観客がわからない段階でもちゃんと心に残る場面を作る演出のきめ細かさに惹きつけられる。
映画のタイトルでもある「SUPER HAPPY FOREVER」という言葉が出てくる流れとか「なんじゃそりゃ」って感じで笑ってしまうし、そこで最もショッキングな事実がさらりと明かされるのも笑いと気まずさの緩急が印象的な描写になっている。その前の場面で指輪を印象的に見せていたりなど、何気ない中に意味のある描写を積み重ねられていて油断ならない。
ユーモアとペーソスという人間味
佐野と一緒に旅行に来ている友人の宮田の友情の距離感の描き方も面白い。風呂場で倒れていたおじいさんについて宮田が「死ぬときは死ぬ」と説明するのがドキッとするのだけど、佐野の状況を知った後から振り返るとより緊張感のあるやりとりに感じられる。宮田はセミナーの誘い方も変に軽くてどこかデリカシーがない。
一方で酔った佐野のせいでタクシーを降ろされたり、そこで急にタバコ買ってきてと頼まれても辛抱強く付き合ってくれる良いやつでもある。結構我慢してくれているぞ、というのを観客も見守っているのでだる絡みされた彼がついに手を出してしまうところも同情的に見てしまう。その直後に酔った主人公を台車に乗せられて運んであげる姿にユーモアと優しさが溢れている。自暴自棄さな主人公にも、それに付き合う宮田にもそれぞれに愛おしい人間味がある。「物にこだわりすぎなんだお前は」と言っていた宮田が指輪捨てられてブチギレるのとかまさにこの映画ならではユーモアとペーソスという感じだった。それぞれ真剣に深刻なのだけど、どこか笑ってしまうバランスもあってずっと面白く観てしまう。
「不在」という欠落感の共有
「大切なものがそこにあった」ということを確かめたい主人公に突きつけられるのはひたすら「もうそこにはない」という事実であり、そうやってもう戻らない思い出を追い求める行為の前には常に人生の有限性が横たわっている。
そういう「取り戻せない」という時間の一方向性を強調するかのように主人公の周りには様々な「ある時間の終わり」が見え隠れする。仕事を辞める外国人従業員、ホテルの閉館のお知らせ、倒れるおじいさん、閉店した飲食店など、「全てはいつか終わる」という有限なサイクルのあり方を見つめているように感じた。
思い出とは本質的に不確かなものだと思う。「時間」は始まりと終わりがセットであり、全ては始まった瞬間に終わっていくものかもしれない。起きた出来事は元に戻すことはできないし、起きた瞬間から遠ざかっていく。
主人公は自分の大切な記憶が不確かなものになってしまうことに抗おうとしているようにも見えるのだけど、彼が直面し続けるのは不在という喪失ばかりであり、「確かにそこにあった」という救いがなかなか訪れない。観客もまた「そこにない」ということによって彼が何を探しているのか、その物語を共有できない。思い出に触れられない主人公がいて、観客は画面に映らない彼の大切なものに触れることができない。彼の物語が画面上に不在のまま進んでいくことが観客にとっても喪失的な映画体験になっているように感じた。
逆行する時系列を順行で描く構成によって生まれる救い
だからこそ、物語が過去に遡って「そこにあったもの」を描き始めること自体に大きな感動があるように思う。劇中で佐野は「思い出す」ことによって今ある悲しみと鏡合わせのかけがえのない幸せに触れる。佐野が悲しみの逆説としての幸せを思い出すように、観客もまた「もうそこにはない」という序盤の描写よって「確かにそこにある」ことのかけがえなさ、その温かさをより切実に感じることができる。
現実では物語が始まりに戻ることはないけれど、映画の中でなら現在のあとに過去が来ることもある。そうやって逆行する時系列を順行する時間表現で描く映画の構造が「現在の悲しみに対する答えとしての記憶や思い出」という内容の救いを際立てているように思う。
現実に生きる僕たちも美しい記憶によって人生を救われることがあるように、全てはいつか終わってしまうという避けようのない普遍の摂理に対して、それでも大切な瞬間を生きたという記憶があることが生きる意味なのだと思う。深い悲しみは「とても幸せだった」ということであり、それはたとえ全てが終わってしまった後でも否定できない人生の豊かさなのだと思う。それは気休め程度の救いかもしれないけれど、だからこそ切実でもある。
「確かな記憶」の温かさ
過去の描写は山本奈衣瑠演じる佐野の妻・凪の視点で描かれる。それが佐野の信じたかった凪の存在のようでもあるし、彼がようやく「そこにあったんだ」と信じられた亡き妻の生の痕跡のようでもある。「わからなさ」ではなく「確かに共有した時間」であることが凪の感情に触れられるような描かれ方に浮かび上がる。
「あなたにとってもこういう思い出だったら嬉しい」という描写にも見えるし、それを確かめられたことが彼に訪れた救いのようでもある。ここに立ち現れるかけがえのない瞬間一つ一つが本当に悲しくも美しくて、話が過去に戻ってからは切なさから何度も泣いてしまった。
佐野が服屋の前に落ちている赤い帽子を拾って「臭くない!売ってるのかな?」って話した時、それを素敵なこととして受け取ってくれる凪。あの空気が合う時の奇跡のような瞬間。そういう描写一つ一つが本当にグッとくる。二人が出会うきっかけ一つとっても小さな出来事でしかないのだけど、食事やファッション、音楽、一緒に歩いたり話したりする時間など、大きな感動を共有することだけが思い出なのではなく小さな感情で通じ合う瞬間にも大切な人とのかけがえのない時間があるという眼差しに感動した。凪が話した小さな思い出を佐野もまた素敵な瞬間として思い返しているようでもあり、どちらにしても凪のこういうところが好きだったんだろうなと思うと切なくも温かな気持ちになった。
終わりゆく時間の中でそれでも終わらないもの
映画は最後、佐野の視点も凪の視点も離れて、残された物語を見つめる視点になる。「確かにそこにあった」ことの証拠が劇中の現在に初めて紛れもない事実として現れる。
全ては終わってしまうけれど、全てがなくなるわけではない。記憶でも、物でも、僕たちは誰かと出会うことで出会う前とは違う世界を生きている。
そうやってその人が生きていたという事実が世界のどこかで誰かの物語の一部として残り続ける。誰かに影響し、影響されることで広がり続ける可能性こそが時間という限りあるサイクルを生きる僕たちの人生にとっての希望なのだと思う。
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