2023年映画感想No.54:aftersun/アフターサン(原題『Aftersun』) ※ネタバレあり
切り取られた時間に浮かび上がる"何か"
ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。
「映画館で映画を観る」という行為自体が一種のモラトリアム的だからこそモラトリアム期間を描く作品は映画館という環境と親和性が高い。映画を観るという行為はいつだっていつか来る終わりに向かっていく体験だからこそ、「この時間が終わってしまうのではないか」という予感がモラトリアムという自由な時間のかけがえなさまでも浮かび上がらせるように思う。
この映画も31歳の父と11歳の娘の旅行の様子を通じてその時間が二人の関係にとっての最後の何かだったのだろうということが浮かび上がる。「何か」と書いたのは映画内でははっきり決定的な出来事は描かれないからなのだけど、それは大人になった娘のソフィの「今思えばあの時...」という眼差しの追体験のようでもある。想像の10倍くらい”何も描かれない”作品なのだけど、だからこそ想像させるし、想像することしかできないという物語になっているように感じる。
劇中の多くのカットで父親の姿がビデオ映像や鏡に映る姿で切り取られるのも「見えない父の実像がある」ということを想像させる演出になっていて、そうやって紡ぎ直されるソフィの記憶としての映像には父親と同じ年齢になって「今なら理解できるかもしれない」という立場が滲んで見える。
今だから気づける痛みと優しさ
映画冒頭のインタビューシーンからこの物語の見つめる純粋さゆえの残酷さと、それを後から思い返す後悔が示されるような場面になっている。
今だからわかる父を傷つけた自分の振る舞いや、今だから気付ける父の精一杯の優しさを振り返っていくような物語であり、子供から大人になる過渡期にいるソフィの父親との微妙な距離感の後ろ側には、ソフィが現在に至る自己のアイデンティティに目覚めていくきっかけと父が父親としての表情の後ろに抱えていた痛みが描き込まれている。
記憶の中の父親は時折とても悲しく苦しそうであり、一見すると楽しい旅行の思い出の端々にカラムの危うさが見え隠れする。一方のソフィも恋愛的な感性に目覚めていく中で父娘の関係性の外側に向かっていくのだけど、そこで初めて知る自分への戸惑いこそがまさに父親に近づく一歩だからこそ、(あくまで理解者ではなく大人としてではあるけれど)彼女を導こうとするカラムとすれ違ってしまう場面が思い返すととても切ない。カラムもソフィも父娘という関係性の過渡期にいるからこそ一人でいる場面のフラフラとした様子がなんだかとても不安な気持ちにさせられるのだけど、まさに娘が成長していくことでカラムの最後の役割が終わっていくような話でもあるのが胸を締め付けられる。
何気なく流れる時間の意味
カラムが中盤ソフィにかける「生きたいところで生きろ。なりたい自分になれ」と言葉は自分の人生を肯定できない彼が言うと本当に重いのだけれど、確かにその言葉がソフィの人生を支えているようにも感じられる。この場面も含めてその時間が何気なく流れていくこと自体に二人にとっての言葉の重みの違いが横たわっているようであり、一方で確かにその場面を思い出しているということが現在のソフィにとってのカラムの影響や意味を表しているようでもある。
時折訪れる温かな瞬間もカラムの生きることの絶望を乗り越えられなかったのだと思うと辛い。後に待っている結末は全てが終わった後から振り返っているソフィの視点から予感だけが示され続けるのだけど、自分の人生を選択した彼女だからこそそこにある絶望の意味を理解しているのだと思うとすべてのシーンが胸に迫る。
「追想すること」を追体験させる物語
実はソフィが思い返している物語ということをわかって振り返ると「もしかしたらあの時」という後悔ともう戻れない記憶の苦しさが全編を貫いていることがわかる。そして本作の観客もまた何気なく描かれてきたこの映画の様々な場面について観終わってから「起こった出来事の後ろ側にある物語」を改めて追想する。それこそがまさにこの劇中のソフィの視点と重なるという見事な語り口。
大切な人を傷つけてしまったことや、そのことに傷ついてきた人にこそ映画は寄り添ってくれる。ビターだけど、だからこそ豊かな人生についての映画だと思う。もう戻らないあの頃そのものである父の後ろ姿を見送ることしかできないラストショットが心に残る。
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